「落語界の新たな顔」【第4回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

志ん朝が亡くなった翌月の2001年11月、柳家花緑が初めての著書『僕が、落語を変える』を出版した。
正確に言えば作家の小林照幸氏との共著で、形式は小林氏が花緑に密着取材したドキュメンタリーだが、実質的には花緑の「21世紀に生きる落語家としての決意」を語った、一種の告白本のようなもの。そこに書かれていたのは五代目柳家小さんの孫として生まれたがゆえの苦悩と葛藤を乗り越えて「花緑が花緑であり続けるために頑張るしかない」と前向きに落語に取り組むに至った、彼の赤裸々な思いだった。

 

1994年に31人抜きの大抜擢で戦後最年少(22歳)の真打昇進を果たした花緑は、「小さんの孫」というプレッシャーと闘いながら努力を重ね、国立演芸場花形演芸大賞や彩の国落語大賞などの受賞で落語家としての実力を証明する一方で、演劇など多方面での活躍で「今一番忙しい落語家」と評されていた。シェークスピアの戯曲を江戸を舞台とする落語にアレンジし、得意のクラシックピアノ演奏と合体させたCD『じゃじゃ馬ならし』を2001年2月にソニーからリリースすると、NHK『トップランナー』、テレビ朝日系『徹子の部屋』、TBS系『情熱大陸』といったテレビ番組がこぞって花緑を取り上げ、知名度も一段とアップ。「人間国宝の孫」というキャッチフレーズも相まって、花緑は落語界の新たな「顔」となっていた。

 

その花緑が、志ん朝が亡くなった翌月に『僕が、落語を変える』というタイトルの本を出したのだから、インパクトは絶大だ。

 

もっともこの本自体は志ん朝の死とは関係ない。21世紀最初の日の寄席に向かう花緑のドキュメンタリーから始まる『僕が、落語を変える』は、新潮社の編集者との食事会で作家の吉川潮氏が「今の花緑さんに足りないのは自身の本だ」と言ったことがきっかけで生まれた企画で(河出文庫版「まえがき」より)、同年1月3日に四代目桂三木助が亡くなったことについては言及されているけれども、志ん朝の死には触れられていない。

 

だが偶然とはいえ、花緑がここで『僕が、落語を変える』と宣言したことは、業界的にも大きな意味を持っていた。花緑は、当時の落語協会の噺家としては異例と言えるほど、立川流との関係が深かったからだ。

 

1993年4月からフジテレビ系で始まった『落語のピン』は立川談志の高座をメインとしたテレビ番組で、小朝や志の輔、昇太といった真打の他に二ツ目の有望株も出演、中で志らくが一気に人気を高めたことで知られるが、花緑(当時まだ二ツ目で柳家小緑と名乗っていた)もここに参加、それが談志と直接話をした最初の機会だったという。

 

この『落語のピン』に出演していた若手のうち昇太、談春、志らく、小緑、三遊亭新潟(現・白鳥)、橘家文吾(現・文蔵)、横目家助平(現・柳家一琴)らが「らくご奇兵隊」というユニットを結成したのは1993年5月のこと。スローガンは「うまい落語家と言われるよりも面白い落語家と言われること」で、後見人が談志と山藤章二氏。この「らくご奇兵隊」で受けた衝撃が、花緑の落語観を変えた。2009年に僕が行なったインタビューで、花緑はこう言っている。

 

「それまで僕は、うちの祖父や小三治師匠が落語として『正解』の形で、あれに向かっていくんだと思っていました。とにかく稽古を重ねていれば、あれに近づいていけるんじゃないかと。そんな僕の前で、昇太兄さんや志らく兄さんは、僕の彼女や親友をバカウケさせたんです。で、僕の芸は彼女や親友には通じなかった。同世代の人間に、僕の芸は面白くなかったんですよ。そして昇太・志らくという、僕より年上の人たちがウケさせていた。それが一番ショックでした。そのショックを談春兄貴が見抜いて、『おまえはな、死に物狂いで彼女をウケさせろ。彼女がウケる芸だけをやれ』と言ったんです」

 

昇太・志らく・談春への憧れが、後の花緑落語の原点となった。とはいえ、彼が「小さんの孫」である事実に変わりはなく、葛藤は続いたという。そんな花緑が吹っ切れるきっかけを与えたのは、真打昇進時に交わした談志との「一時間の立ち話」だったと『僕が、落語を変える』に書かれている。いろいろと言われた中で最も感銘を受けたのは「落語がダメなんだと思うな、おまえがダメなんだと思え」という言葉だったという。

 

小さんと絶縁状態にある談志は、花緑にとっても絶縁状態であるべき、というのが当時の落語協会の「常識」だったはず。だが花緑は志らくや談春との交流を深め、談志にも可愛がられ、2001年には立川企画で「花緑飛翔」なる独演会まで始めている。その花緑が『僕が、落語を変える』と宣言した。ではどう「変える」のか。

 

花緑は翌2002年11月に『柳家花緑と落語に行こう』、さらに2003年6月には『東西落語がたり』という2冊の書籍を立て続けに出版、そこにはより具体的な「提言」が示されていた。それは小朝が『苦悩する落語』で語っていたプランとも一部符合するものであり、ある意味、その後の落語ブームを予見するものでもあった。

 

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
関連記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitterで「本がすき」を