BW_machida
2020/09/11
BW_machida
2020/09/11
茶餐廰というのは、日本流にいうとファミリーレストラン。朝、昼、晩のすべてに対応し、午後のお茶タイムも受けもつというストライクゾーンの広さを誇っている。味は一流店のそれには遠く及ばないが、とにかく便利。そして安い。バックパッカー派の旅行者にとってもご用達食堂である。店によっては24時間営業だから、夜食以外に居酒屋機能まで備えている。
サービスは二の次で、店員は愛想笑いひとつつくらない人も多い。注文を聞くと、まったく読めない漢字をメモに書き留め、箸立ての間に挟んでいったりする。しかし、ちゃんと通じているのかと悩む暇もないほどの速さで料理がテーブルに届く。相席は当然で、「食べたら早く出てってね」という空気が店内に流れている。
メニューは中国語だけという店も少なくない。香港だから広東語ということだろうか。僕はいつもそのメニューと格闘することになる。日本人だから、一応、漢字は読めるのだが、その意味が違うことが落とし穴。漢字の背後に潜む“中国”を読み抜かなくてはならない。だいたい失敗するのだが。
そのなかで安心して頼むことができる飲み物がある。檸檬珈琲である。その意味通り、コーヒーにレモンが入っている。
想像していた物が出てくるという安心感はあるのだが、その味を思い描くところで立ち止まる。味を推測できないのだ。日本では飲んだことがない。紅茶にレモンは一般的だが、コーヒーはミルクだろ、という固定観念がある。日本の飲み物文化のなかでは、すっぽり抜け落ちている領域だ。
こういうメニューを頼むか、避けるか……。そこが旅の好奇心というものなのだが、僕は見知らぬ料理へのハードルが限りなく低いタイプだから、暑い午後、檸檬珈琲のアイスをふっと頼んでしまった。
近くのテーブルに、やはり檸檬珈琲を頼んでいる香港人がいた。コーヒーのなかに数枚のレモンの輪切りが沈んでいる。それをストローでつぶすように突きながら飲んでいる。
「あの飲み方が香港流か」
出てきたアイスレモンコーヒーのレモンを押しつぶして、ひと口飲んでみた。
「苦~ッ」
これはコーヒーか。一瞬、茶餐廰の低い天井を仰いだ。コーヒーの味がしない。いや、するのだろうが、苦さが凌駕している。コーヒーはレモンを入れると、その苦さが3倍ぐらいに増幅されるらしい。
苦味──。日本では春の味である。明治時代の食の研究家、石塚左玄はこんな言葉を残している。
「春苦味 夏は酢の物 秋辛味 冬は油と合点して食え」
蕗の薹(ふきのとう)や菜の花といった春の野菜の苦味は、冬の間に体内に貯まった脂肪を排出する作用があるのだろいう。
しかし中国は五行の世界である。薬膳の世界には五味があり、酸、苦、甘、辛、鹹と表現される。鹹は日本的にいうと、塩辛さということになるだろうか。このうち苦は心臓や小腸の働きを整え、利尿効果があり、体を冷やしてくれる。夏の暑さは苦で乗り切るという発想が生まれた。
香港は暑い。その上、湿度が高い。湿度90%などという日は珍しくない。さらに平地も少ない。「どうしてそんなところを植民地にしたのだ」と現地の担当者はイギリス本国から怒られたというという経緯がある土地だ。
そこに暮らす人々は、暑さを乗り切るために苦さを選ぶ。街角のそこかしこにあるお茶屋には、必ず苦茶がある。すでにつくられていて、頼むと小ぶりの丼に黒い茶を注いでくれる。それを立ったまま飲む。1杯100円もしない。
「苦~ッ」
これが香港人が暑さを乗り切る方法だった。僕もこの苦茶をよく飲む。水を飲むより、暑さを克服できるような気分になるからだ。お茶屋の店先での世間話も嫌いではない。
植民地香港には、ヨーロッパからコーヒー文化が入ってきた。そこにレモンを入れ、苦味を際立たせて、五行の世界にもっていってしまった。香港人である。
日本でアイスレモンコーヒーをつくってみた。コンビニでアイスコーヒーを買い、そこにレモンの輪切りを5~6枚入れる。そしてストローやマドラーでがしがしレモンを突いて、酸味を抽出する。
「苦~ッ」
香港の味の再現は簡単だった。
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