akane
2018/05/25
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2018/05/25
脚本家・映画研究家の大野裕之さんが、スター声優たちの肉声から声優の歴史に迫る「創声記」インタビュー、羽佐間道夫さんに聞く第2回は羽佐間さんの声優になる前の――前夜のお話です。羽佐間さんのアルバイト秘話とは!
ーー疎開されたのち(第1回参照)、日本は1945年に敗戦を迎えます。
羽佐間 疎開先の長野から高輪に戻ってきてやがて終戦、東海大学付属中学校に行きました。そこに児童文学の内木文江先生がいらして、この人が演劇を僕に教えてくれた。アンデルセンの出し物などで、全部僕を主役にして。そのうち、中学生コンクールで、内木先生が書いた「カチカチ山後日物語」(うさぎに仕返しをする話でした)を演じて、芝居というものを、だんだん感じるようになった。
僕の一つ上には、浪曲師の相模太郎の息子(二代目相模太郎)がいて、そいつも芝居をやってて、のちに僕が「5つの銅貨」という映画をやった時に、彼がサッチモ(ルイ・アームストロング)の吹き替えをしました。
その後は、芝正則高校を出て、親父が死んだことで経済的に苦労していたので、大学は諦めて舞台芸術学院(舞芸)に進みました。舞芸は、土方与志とか、秋田雨雀とかがやってた学校で、いい先生からシェイクスピアを教わったり、良質な演劇に触れることができました。
この頃、従兄弟の重彰(のちのフジテレビ社長・羽佐間重彰)が早稲田を卒業して、大映に入っていて、よく「おい、ちょっと出ないか」と言われて、出して貰っていました。
ーー卒業後は?
羽佐間 二十二歳ぐらいで卒業して、劇団中芸に入りました。もとは新協劇団でしたが、薄田研二と村山知義が喧嘩別れして、一時だけちょっと離れて、またくっついて東京芸術座になるわけです。僕も滝沢修になるつもりだったんだけどなあ(笑)。
演劇は、本当にすごい人ばっかりに教わってる。土方与志、秋田雨雀、それから千田是也――一流の演出家に全部教わっているんだけど、今言えることは、新劇から教わったものは何一つ残ってないね。例えば、「おい、羽佐間、お前はこの役をどう解釈してるんだ。パリ・コミューンの前にはどういう時代背景だったか、ちゃんと本読んでこい!」と、そういうことをいっぱい教わるんだけど、だからと言って、次の日に芝居が変わるかっていうと、何も変わらない。
でも、みんないい人、素晴らしい人たちでした。薄田研二さんは中村錦之介の映画で、悪役で売れていた人でね。それで、旅回りに行くと、やくざと渡り合うんですよ。いつもやくざの親分で出てるもんだから(笑)。地方のやくざが、「親分の所へちょっと挨拶に」なんて、薄田さんの前で出刃包丁かなんか見せて、「てめえら」なんて言って脅しに来るんだよ。そういう時代でしたよ。
ーーこの辺り(新宿の思い出横丁)はどんな雰囲気だったんですか?
羽佐間 この辺は戦災孤児がそのまま大きくなって仕切っているような場所だった。金持ち見るとカツアゲするんだけど、俺たち見ると、「あぁ、金ねぇやつらだな」とわかるから安全だった(笑)。
当時の新劇は、左翼演劇全盛期で、舞台で赤旗振ってるとワーッと観客が喜ぶとか、そんな芝居しかしない(笑)。だから、最初出たのは広津和郎が松川事件を題材に書いた社会派の舞台でした。それで、帰りにこの辺りの店に集まってベレー帽かぶった仲間がチェーホフとかイプセンとかを熱く語って、「お前はスタニフラフスキーがわかってるのか?」とかね。誰もわからないんだけど(笑)。
ーー舞台で食べていけたのですか?
羽佐間 全然。みんな金の貸し借りしすぎて、貸したやつと借りたやつとが分かんなくなっちゃう(笑)。「お前に借りてたっけ?」とか。「俺は貸してたよ」なんて、噓つきがいたりね(笑)。
みんなはサンドイッチマンのバイトをよくやってたね。あれは時間の都合もつくし、時給がいいんですよ。その中でもランクがあって、マキさんっていうサンドイッチマンが有名だった。チャップリンの衣装を着て、ドタ靴履いて、銀座を根城に稼いでたサンドイッチマンのスター。女の子は銀座のクラブとかで働いて、有名な演出家が、銀座に行って、女の子の膝を触ったら、「私、先生の劇団の研究生ですけど」ってのもあった(笑)。
ーー羽佐間さんはどんなバイトを?
羽佐間 私の叔父がお金を出して、NHKの松内則三アナウンサー(「夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが、二羽、三羽」のセリフで有名なスポーツ・アナの草分け)と、神田に立花亭っていう寄席を作ったんですよ。で、昼間は学校行って、夜はそこのチケットボックス——当時「手穴(テケツ)」と言ってました――でバイトしました。手の穴だけあって、誰がチケットを売っているかは見えない。酔っ払いの客なんかが、女の人が中でチケットを売っていると思い込んで、芸者さんかなんかを連れてきて、「おい、男一枚、女一枚くれ」なんて言うと、僕が「男でも女でも同じ料金なんですよ」なんて、女の声でテケツから手だけだして答えたりして(笑)、手がまだ若かったから、「このやろう」なんて掴まれて、「やめて」とか女の声で会話したりしてました。
寄席でバイトをしながら、古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭圓生、まだ二つ目だった林家三平らの落語を聞けたのが、僕のもう一つのルーツでもありますね。落語だけじゃなくて、三十一日にやっていた「余一会」(十日ずつ寄席の番組が替わって、一日余るのでこう呼ばれていました)があって、そこに面白い人たちを呼んでくるんです。ある時は、力道山を呼んで、寄席の舞台でレスリングやったりして。
(第3回に続きます)
羽佐間道夫(はざま・みちお)
1933年生。舞台芸術学院卒。劇団中芸を経て、『ホパロング・キャシディ』で声優デビュー。以来、声優の草分けの一人として数多くの名演を披露。代表作に、シルヴェスター・スタローンを吹き替えた『ロッキー』シリーズほか、チャールズ・チャップリンの『ライムライト』、ディーン・マーティン、ポール・ニューマン、ピーター・セラーズ、アル・パチーノの吹き替えなど多数。2008年、第2回声優アワード功労賞受賞。
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