BW_machida
2020/09/11
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2020/09/11
第三章
ラブラッド(3)法医学准教授 川原典子
翌日には登録したメールアドレスに〈ラブラッドの献血結果〉というメールが届いた。菜々子はタビケンの部室の机に向かって、そのページを開いた。
ミヤモト ナナコ様
ミヤモト様の献血血液検査結果が「ラブラッド」より、ご確認いただけます。
日本赤十字社からのお礼と挨拶の文。
一日約三千人の患者が輸血をしているという紹介文があり、特に、有効期間が四日と最も短い血小板製剤の原料となる血小板成分献血が必要な時には、またお願いのメールが送られるという記述などは、医学生には参考になった。
登録時のパスワードは、775gogoだ。
一つ深呼吸をして、ログインする。
メイン画面では、早速、次の予約を促すアイコンが点灯し、400mLの全血献血にはあと77日で献血可能。血小板成分献血には、あと49日、と表示されている。この日数が、明日見れば一日ずつ減っているということだ。
その横に、「ミヤモトさんの献血ポイント」が10。
そして、ついに出てきたのは、
「ミヤモトさんの献血記録を見る」へと飛ぶ赤いクリックボタンだった。
今更動揺したって仕方がないやと菜々子は腹をくくった。
献血記録の確認。
献血者コード 578899
名前 ミヤモトナナコ
血液型 B+
簡易検査は、間違いなしだ。
そう、誤差はなかった。
血圧や生化学検査、血球計数検査も表示されている。
γ-GTPやアルブミンALB、ヘモグロビン量やヘマトクリット値まですべて異常なしの黒い文字で打ち出されている。
献血をしたらこんなに血液を調べてくれるのは、健康チェックのためにも有効だなどと冷静な気持ちで受け入れようとしている自分に気づく。そう、自分は問題なく健康体なのだ、と。
ただ、その血液型だけは菜々子には異常を示す赤い表示に見えていたのだがーー。
「菜々子、それ、ラブラッドだね? あ、すみません、こうやって急に見るの、韓国では友達にいつもやるから。考える前にやっちゃうの」
「いいの、ジヒョン。異常なかった?」
「本当、完全健康。献血の時は、抹茶アイスももらって食べた」
ジヒョンは明るい笑顔でそう言った。
実家に電話をしたのは、その日の夜だ。バイトのない日、いつもなら謙太と遊んでいることが多いのだが、一人で帰宅した。
菜々子の住むマンションは、オートロックでもなければエレベーターもなくて、螺旋階段を上っていった先の三階が自分の部屋だ。古いけれど、外に小さなベランダがあって、小さな椅子とテーブルが出せる。それが気に入って決めた部屋だった。家具は、古道具屋で見つけてきたアンティークを置いていて、ダイニングの椅子は三つともばらばらのデザインだ。
寝室には謙太と同じデニムのハンガーラックがあり、数はショートパンツも合わせると、菜々子の方が少し多い。
「菜々子です」
ベランダからかけると、電話口には母が出た。忙しそうに子機を持って動いているのがわかる。かつてはただ忙しかったから、私を遠ざけたのか、それとも相性の問題で面倒な子だと感じていたのか。
大学では奨学金を受けているが、こうやって部屋の家賃だって出してもらっているのだから、愛されていないだなんて言ってはいけないはずだ。だから誰かに話したい訳でもなかったし、自分自身が家族から遠ざかっておきたかったのだが、昨夜の謙太のおかげで今日は平静な気持ちで電話ができている気がする。
「あら、あなた元気にしてるの?」
相変わらずのそっけなさだったので、逆に事務的に訊いてやろうと思った。
「質問があって。お父さんとお母さんの血液型。大学の授業で必要なの」
早口で言うと、向こうもはぁとばかりに即座に返してくる。
「何よ、わざわざ電話してきたと思ったら。何度も言ったでしょう。うちは全員0型」
厨房から声がかかったのか、はーい、と母は返事をしている。
「まだ、なんかある?」
「忙しい時間に悪いんだけど、あとちょっとだけ付き合って欲しいんだ。それ、確か、でしょうか? 大学の授業によると、年代が遡るほど、検査結果に間違いが多いって。二人はそれぞれの血液型を、いつ頃、どうやって調べましたか?」
「年寄り扱いね。確かも何も、お父さんとお母さんは毎年夫婦でロータリーの献血に駆り出されてるんだもの、今年も二人で行きましたよ」
「はい。わかった」
菜々子は自分の声から力が抜けていき、妙に高い音になったのを感じた。ついに、答えは出た。血液型だけで言うなら、父と母から私は生まれない。だとしたら、どんな魔法がかかったのだろう。
けれど母の口調からは、それを言い当てられて困っている感じもない。
母は続けた。
「あなたの母子手帳にも、O型って記録あるわよ」
「え、待って、それ誰の記録?」
「あなたのに決まってるでしょう。あなたも貴之(たかゆき)もO型。血液型占いなんて当てにならないわよね。うちじゃ、みんなずいぶん性格が違うし」
今のも嫌味なのかもしれなかったが、菜々子にはそれ以上のショックがあった。
通話を切って、また謙太の番号を開き、けれど画面をオフにして、もう一度空を見上げた。
話しかけたいのに、曇った空に今日は月は見えなかった。
何が、どうしてこんな間違いにつながったのだろう。
前期の講義はほぼ終わり、四年生には後期の専攻のためのガイダンスが、大講堂で行われた。
医学部では、学年ごとに、基礎医学系と臨床医学系の専攻があり、四年後期は臨床が本格的に始まるのと、基礎系でも応用が始まる。
菜々子は基礎系で、法医学の実習が始まるのを見つけた。
各教室の教官らが一人十分ほどで、予め手渡されているプリントの、補足説明をしていく。
最後の説明に立ったのが、法医学の女性准教授、川(かわ)原(はら)典(のり)子(こ)だった。白衣でショートカット、痩せた体でパキパキした話し方だった。
「皆さんは、普通医者になったら患者を治してあげたいと思うのが一般的だと思います。でも医療の一歩手前にも大切な領域があるんです。臨床とは違って、法医学は常に客観的であることが必要です。それによって犯罪が発覚したり、犯人がわかったりする。同僚が医療過誤で訴えられた時、それぞれのケースを検証しながら本当に過誤かどうかを調べるのも法医学です。学生のうちに、そういうことを知っておくのはいかがでしょうか? と、いうのが私からの誘い文句です」
前の席に座っていたタビケンのくせ毛、霧(きり)島(しま)徹(とおる)が振り向いて、菜々子に言う。
「ミステリー好きは、そそられるね」
川原は続けた。
「四年生の実習では、うちでは各自のDNAの遺伝子型を書き出すところまでをやりますよ(トル)。スワブ、つまり綿棒状の検体採取キットを用いてDNAを採取し、これをPCRで増幅させる。そこからシーケンサーにかけるところまでを二人一組のペアでやってもらいます。本当は全員分がいいんだけど、これに用いる試薬もなかなか高価で、大学が予算を出してくれないので、通常はペアのどちらかの遺伝子型を調べることになります」
准教授の率直な発言に、大講堂にはくすくす笑い声が響いたが、菜々子は手を握りながらじっと耳をそばだてていた。
「DNA型鑑定はニーズが多く、東日本大震災の時にもうちの研究室は参加しました。今の検査精度は大変高くて、親子検査などの場合は、親子である確率はゼロパーセントか九十九パーセント、つまりほとんどが白黒つきます。興味のある人は、まずは気楽に遊びに来てくださって構いません。うちの研究室はこの時代にあってもわりと皆夜遅くまで研究している学生が多いですから」
前の席に座っていた霧島は、
「結構、面白そうだよね。教官も話がわかりそうだしさ。法医学に進むのはちょっと覚悟がいるけど」
と、菜々子の方を振り返って言い、またプリントをめくった。
専攻は三つ選べる。
最初の希望欄に、菜々子は法医学を書いた。
次回につづく(毎週金曜日更新)
photos:秋
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