ryomiyagi
2021/03/12
ryomiyagi
2021/03/12
※本記事は連載小説です。
第8章
DNA(3)イニョン
廊下に出た菜々子の背に、
「菜々子バイトに行くの? 久しぶりだから、私たち駅まで一緒に行こうか?」
そう言うジヒョンの声が聞こえ、その手が触れた。
振り返って見つめたジヒョンの表情には、これまで以上に優しさがにじんでいるように思えて、澄んだ目に思わず吸い込まれそうになった。
「そうだね。おかえり、ジヒョン」
「タニョワッソヨ」
「その韓国語、いいね。多分、ただいま、でしょう? じゃあ、おかえりはなんて言うの?」
訊ねてみると、こちらを見たままジヒョンは答えた。
「ただいまとおかえりは、反対になった言葉ですから、タニョワッソヨ、行ってきました、には、チャルタニョワッソヨ、よく行ってきましたね、となりますよ」
「チャルタニョワッソヨ」
ジヒョンの言い方を真似ていると、気持ちの中にまで優しい風が吹いた気がした。
部会の間は、居ても立っても居られないような気持ちで廊下に飛び出たのに、菜々子はジヒョンとの会話に慰められていた。
思えば二人で新しい年になって会うのは、はじめてだった。大学のキャンパスを通り抜け、駅までの道を並んで歩く。
菜々子より、ジヒョンの影法師の方がちょっとだけ小さい。自分の家族の中で長身なのは、菜々子だけだ。この頃はよく、本当の親はどんな人たちなのだろうと考えるようになった。どうせなら、夢のようにリッチで、すらりとした美男美女で、優しい人たちならいいのにな、とか。
ジヒョンと尊の話も訊きたかったのに、どちらからも会っていなかった間の質問ばかりが続く。今はジヒョンの問いかけをのせたシーソーの方が、その熱の重さで傾いてくる。
「クリニックは、カルテは見つけたはずなんだ。なのに、いつまで待たせるんだろう」
高山産婦人科医院から連絡が来ないのに不審を抱き始めたことまでを伝える。
「菜々子の一日一日、不安がたくさんあるのにね。私また何も助けられなかった」
「そんなのお互い様だよ。ジヒョンもジヒョンの王子様も、子どもの頃は世田谷にいたんだもんね。何か私たち、縁があるのかな。縁ってわかる? ジヒョン」
「私わかるよ。縁はイニョン。縁は結ぶものです。切ってはいけない」
菜々子はジヒョンより少し下がってみた。影法師の背は、菜々子がさらに大きくのび、ジヒョンに覆いかぶさるようだった。
「クリニックが、本当にひどいです。クロニカ、だけど、ドクターの味方じゃないけど、多分、あちらもいろいろの準備が必要でしょう。それは、もし何かあったなら、すでに二十二年分の、あまりに大きすぎる責任があるから。弁護士先生たちとも相談してから連絡するでしょう。だから、もう少し待つのがいい」
二十二年分が揺らぎ、そこからぐらぐらした砂地の上で一日一日が過ぎている。ジヒョンの言う通りだ。
実は菜々子は、今日部室へ行く前に、法医学教室へも立ち寄ったのだと、その時の話をした。
准教授の川原にも、久しぶりに会うことができた。
「あなたのこと、気になってた。どうなったの?」
と、白衣姿の川原は率直に訊いてくれた。
経緯を話し、クリニックとはどう向き合えばいいのか訊ねた。
「まあ、一人で乗り込んだのね。宮本さんらしいし、さすが医学生だ。もうDNA親子鑑定の結果が出ているのだから、まずそれしかなかったかもしれないね」
そう言って、これまでDNA親子鑑定が導き出した、幾つかの例を話してくれた。
隣を歩くジヒョンにも、互いの足音を間合いにしながら、改めて伝えた。話しながら、自分の気持ちを整理していた。いつか自分もそんな話の当事者になる。
ある男性は、六十歳になって、生後すぐに病院で取り違えられたと知った。これは有名な裁判へと発展した。一方の家は裕福で対照的に、一方の家は貧しく、父親はすぐにいなくなった。貧しい家庭で育てられた彼には、苦労続きの人生が待っていた。だから、自分も本当なら裕福な家で育つべき人間だったと訴えた。
一方、豊かな家で育った六十歳は当たり前のように大学に進み、大手企業に勤めたが、それで幸福だったとも限らなかった。彼はその家の長男となったが、他の兄弟とは見かけも性格も、一人だけどうにも異質だった。母親は常にそれを意識しており、長男も親の介護は全て弟たちに押しつけた。財産分与を争う上で、病院への調査にまで発展した。その結果、六十年前の取り違えが発覚した。それを裏づけたのは、DNA型鑑定だった。
双方への多額の慰謝料が支払われたものの、両方の家族の六十年のねじれは、もうどうにも時間を戻しようがない。
「科学の進歩と人間の幸福の話は、いつも同じベクトルだとは限らない。結果が明らかになった方が、両方の家族に良かったのかどうかもわからない。でも、良かったかどうかを決めるのは、何かしらのミスを犯したはずの医者ではない。医者は過誤を、まず認める必要がある」
川原は、きっぱりとそう言った。
研究者によると、一九六〇年代前後には出産後は母子異床が推奨されていた。一九五七年から七一年の実際の報告は全国で三十二件、その二十倍、六百件以上は取り違えがあるだろうと言われているそうだ。
「その後、母子同床が推奨されるようになった。あなたの年代にはもうそうだったはず。何が起きたのかは、まずクリニックの調査を待つしかないね」
川原は感情を挟まずに事実だけを伝えてくれる。けれど、そこに表される一人一人に、菜々子は今心を託してしまう。
川原自身が携わった鑑定例も少なくない。
父親からの依頼によって、彼女が鑑定したある十代の兄弟はいづれも、懸念された通り、彼の実子ではなかった。無表情で結果を聞いた母親の明かさない秘密がそこにはあるはずだった。
後日、父親は家を出たと報告を受けたが、驚いたのは一緒に結果を聞いた息子たちが、川原に向かって、頭を下げたという。
「先生、ありがとうございました」
「希望を作るのは、どんな時にも自分自身だから」
ジヒョンは今、そう口にして、
「ハニーフラッシュ!」
と、なぜか突然、いつか一緒に歌った歌を手振りつきで口ずさんだ。
ジヒョンのスマホに着信があり、彼女が少し先を歩きながら話し始める。韓国語でわからないが、タビケン、という単語が聞こえる。
いつも密に連絡を取り合う家族と、今なにをしているのか? ちゃんと食べているのか? 眠れているのか? きっと今日も報告し合っているのだろう。
そんなジヒョンが正月休みに韓国に帰らずに、尊の元で過ごした想いの深さを改めて実感していた。家族への信頼があるから、ジヒョンはそうして自分の想いを大切に歩めるのかとも。
桜が満開になった頃、高山産婦人科医院の代理人と言う弁護士からの連絡は、結局母に届いた。それは電話でもなく、一通の文書だった。
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PHOTOS:秋
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