第5章 謙太(6)高山産婦人科医院
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/12/04

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第5章
謙太(6)高山産婦人科医院

 

 革の匂い、軋む音、気づけば菜々子は背中から謙太の腕に抱きとめられていた。
 プリントアウトされるまでは、前のめりになって見つめていたはずのデータだった。三原色の組み合わせで表示される。それが川原によって読み解かれたとき、菜々子からはなんとか保っていたはずの体の力が一気に抜けていき、腰から床に頽折れていた。
「大丈夫だよ、菜々子。大丈夫」

 

 

 耳元に、謙太の囁くような声が響いていた。
 何が大丈夫なの? ねえ、なんで? 何が大丈夫だって言うのよ。心の中で強く反発しても、それがいつものようには声にならない。
 ジヒョンの方は医師の卵らしく、自分でも確認するように机の上に並んだそのデータをもう一度真剣に比較しながら見ていた。ただ、誰の目にも、弟と自分のアリールの結果の違いは明らかだった。今の菜々子にはそれはまるで、出来不出来の差に思えた。
 弟は、ちゃんと両親のどちらからも遺伝子をもらって生まれてきた子ども。自分は、そのどちらからも、受け取っていない。

 

「今日は、これで一旦、帰ります」
 立ち上がって菜々子は、川原に頭を下げた。
「ちゃんと帰れる? 友達がいるから、大丈夫ね」
 同じ「大丈夫」という言葉が、先ほどの謙太とはあまりに違って響く。
「先生、付き合ってもらってありがとうございました」
 川原は黙って小さく二度、うなずいた。同情など一切含まないような、むしろ険しい目をしていた。それが菜々子には、優しく染みた。
 自分は多分これからどうあれ、この現実と生きていく必要があるからだ。親と向き合うのかどうかさえ、決めていない。
 父か母のどちらか、どころか、そのどちらとも生物学上のつながりがない。現実は、想像を超えていた。

 

 

 研究棟のエレベータに乗り、最後は階段を降りてジヒョンと謙太と外に出た。
「二人で帰ったらいい。今日は、菜々子たくさん寝て」
 そう言うと、当たり前のように、ジヒョンが一人で暗いキャンパスを歩き出そうとしている。
「あのさ、ジヒョン、私、お腹が空いたんだ」
 意外な感情が湧いた。さっきまで一人にしてほしいと思っていたのに、その背中を見ているのが寂しかった。
「ホル?」
 と、聞き慣れない韓国語が振り向いたジヒョンから響き、すぐに言い直される。
「何だって?」と、それから「さっき、牛丼食べたじゃない?」と、心底驚いたように続いた。

 

「もう一回、食べようよ。本当にお腹が空いた。謙太は裏門まで先に行ってて」
「うっす」
 謙太はエンジンをかけると、すぐに走り出した。だが蛇行してまたUターンして戻ってきて、また進むのを繰り返した。キャンパスの中を、エンジン音と光が舞った。
 ジヒョンは、菜々子の腕に掴まって歩いていた。やけに強い力だった。
「こういうとき、韓国人はお節介だよ。同じことをすると、日本では嫌われるって聞いた。だから、本当はさ、私、頑張って遠慮しようと思ったよ」
「頑張って、遠慮するって、それおかしいから。それにしても、やけに寒いや」
 キャンパスの照明灯の隙間から抜けて見える藍色の空、やけに澄んだ空には都会の一角であっても星がぽつりぽつりと輝いていた。
 菜々子の体の震えは止まらなかった。実際にそんなに寒いのかどうかわからないが、体が震えて仕方なかった。だから菜々子は、少しジヒョンに体を傾けた。そばにあるジヒョンの体の柔らかさと温もりが愛おしく思えた。

 

 そんな二人の様子をヘルメットのシールド越しに、謙太は見ていた。蛇行運転をしながら、菜々子に友達ができたのだと思うとひと滴の安堵があった。菜々子は一見して誰にでも開放的であるようでいて、決してそうではないはずだった。人に弱いところを見せるのさえ、嫌がるようなところがある。でも今菜々子は、背中を少し丸めて、ジヒョンに支えられながら必死に歩いていた。
 謙太はクラクションを鳴らし、二人に向かって手を上げて、アクセルをふかした。
 先に待っているからね、と言いたくて。

 

 

 店内には煌々と明かりがついている。深夜でもひっきりなしに扉が開いて、客がやってくる。その都度、冷たい冬の風が入り込む。
 裏門前の吉野家の、壁際の四人掛けテーブルに、三人で向き合った。
「本当にまた食べる?」
 ジヒョンはそう言って、目の前の丼を見つめている。
「牛丼には、他にはない安心があるんだ。いつどんなときだって同じ味だから」
 菜々子がぽつりとそう言ったので、
「よし、じゃあ行くか、本日二杯目」
 と、謙太も丼の中央に紅生姜をこんもりと載せ勢いをつけて食べはじめる。そんなことで菜々子を元気づけられるなら、お安い御用だと感じていた。
 だが、食べている途中から菜々子は押し黙ってしまい、その横でジヒョンが目尻をぬぐい始めた。
「これ、どうしてかな。菜々子の気持ちになると、迷子だよ。ものすごく不安だよ」
「ジヒョン、それはちょっと」
 謙太が制しようとすると、
「別にいいんだ。その通りだもん」
 菜々子はそう言って、割り箸を置いた。自分から食べると言ったのに、丼を半分以上残していた。割った生卵が、えぐり取られたご飯の断面に、力なくへばりついている。

 

「ただ、今は理由が知りたいよ。単純に想像すれば、私はどこかからもらわれたんだろうね。施設とかだったのかな」
 ジヒョンはまたテーブルに置いた菜々子の腕に手をかけている。
「まだ何もわからないでしょう」
 菜々子は結んでいた長い黒髪を解き、大きくかきあげた。
「だから、愛されなかったのはわかったけどさ」
 菜々子は水を飲み、椅子の背に体をもたせかけると、からっとした口調でそう言って、続けた。
「どうせなら、ちゃんと愛してくれたらよかったじゃんね」
 謙太は、そう話す菜々子の少し上を向いた唇を見ていた。こんなにも美しく知的に育った菜々子が、二十二歳にもなって今なお親の愛への満たされない思いを口にしている。正直言うと理解はできなかった。自分が満たされてきたからなのだとも思う。何も特別な家族ではないが、親の愛など疑ったことがなかったからだ。

 

 

「そういえば、話したいことがあったんだ」
 思い出したことがあり、謙太はライダースジャンパーのポケットのファスナーを下ろして、スマホを取り出した。スクショしてあるページをもう一度確かめた。
「この病院だったよね、菜々子が生まれたのって。世田谷にある、産院」
「高山産婦人科医院……、確かそうだったと思う」
 菜々子が、そう言って頷く。
「俺、あの後たまたまウェブサイトを見ていて、気にかかっていたことがあったんだけど」
「何があった、謙太?」
 ジヒョンはそう言って眉を寄せて、給水ポットから水を注いだ。ジヒョンは、牛丼のほとんど上だけを食べていた。
「その昔は、ただの産院っていうよりは、人工授精で有名な病院だったみたいなんだ。なんでも、神の手を持つと言われた医者がいたって」
 菜々子は首を傾げている。
「どこにでもありそうな、小さな病院だったけど。謙太も見たでしょ?」
「俺、もしかしたらすごく余計なことを言っているのかもしれない。たまたま、ブログでそんなことを書いている人がいて、少し引っかかっていただけなんだ」
 謙太がiPadで調べていた理由はただ、菜々子が生まれた病院を見たかったということだった。その時に、人工授精という思わぬ言葉が、その病院絡みで何件か連なってきた。

 

 人工授精なんて今時珍しくもないのかもしれないが、謙太はそういう医療にはあまり詳しくないし、菜々子からも、そんな話は聞いたことがなかったから、少し意外に感じていた。
 機会を見て菜々子にも話してみようと思っていたのに、最近は落ち着いて話すタイミングもなかった。
「なかなか子どもができなかった、という話は聞いたことがある。うちの親」
 という言葉尻が消えていくように萎んだ。「でも、忘れた頃に弟ができたんだって言ってたかな」
 もう冷めきったはずの牛丼を、菜々子は再び口に運びはじめた。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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