第7章 菜々子(1)海の匂い
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/01/22

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第7章
菜々子(1)海の匂い

 

 元日の朝、菜々子はパジャマのまま実家のリビングの床に座っていた。家の匂いをいつになく懐かしく感じた。

 

 

 父は届いた年賀状を分け始めていた。弟はまだ寝ているらしく、菜々子は伸びをすると、リビングテーブルの上にあった母の老眼鏡を、パジャマの裾で拭った。
 母の眼鏡は、いつも表面が曇っている。化粧や頭髪用のスプレーなどが付着するのだろう。それを、以前は小汚いと思っていた。けれど先日、下心を持って帰省した時には、物色の種になった。DNA採取のための、候補の一つには見立てられたから。
 今は、単なる母の老眼鏡だ。母、ではなく母だと思っていた人のそれが、なぜだか愛着を持って感じられた。
 表面を綺麗にした眼鏡を手に、菜々子は台所に立つ母の横に立ってみた。
 この後は旅館での新年の挨拶も始まるから、すでに宝尽くし柄の薄墨色の晴れ着に着替えて、髪の毛も結い上げてある。白い割烹着をつけて、忙しそうに手を動かす。

 

「拭っておいたよ」
「え? 汚れてたっ言いたいわけ?」
 母は手を止めてこちらを見た。
「まあ、いつもそうだよ」
 するとため息をついた。
「元日から、そんな嫌なことを言うことないじゃないの。そんな暇があったら、手伝ってよ」
「嫌だ」
 まだ寝起きのパジャマのままで、菜々子は口元を斜めにして力なく笑ってみた。
「何よ、それ。だいたいね、元日くらいは朝からパリッとしてみたらどうなのよ」
 いつも通りの母だ。早口で全否定してくる。邪険にされているとさえ、感じさせる。
 でも今は、そんな否定さえもが温もりだと感じる。母と娘の唯一の結びつきに思える。
 そっと体の軸を揺らしながら、母の方へ傾けてみた。

 

「ちょっと、どうしたのよ?」
 返事ができずに、まな板の上を見て、指を伸ばした。
「これ、いつもと色が違わない?」
 そう言って、数の子に手を伸ばそうとすると、またぴしゃりと言われた。
「ああ、邪魔臭いわね。貴之ならさ、こんなときにだって、美味しそうってつまみ喰いでもするんじゃない? あの子は甘えるのが上手いのよ。あの子は、あの調子だから、モテるってよ」
「へえ、おめ」

 

 誰かと比べられるのは、小さい頃から慣れっこだ。いつもならただふて腐れた気持ちになるのに、母の方をじっと見つめてしまった。本当に、血のつながりのない子だからとこうして別扱いしているのなら、母は極悪人だ。確かに、貴之はあなたたちの本当の子どもだ。 だからって、私までこの家にいるのはなぜ? どんな理由で、ここで育ったの? こうして邪険にされながら。

 

 

 菜々子は、パジャマ姿のままダイニングテーブルに祝い箸や小皿を並べると、自分の部屋へと上がった。
 窓を開いて、なんとか深呼吸をした。何を期待して帰省したのだったか。自分のDNA検査の結果を話す勇気はあったろうか。または、家族にその理由を問うつもりなどあったろうか。
 もう一度ベッドの上に足を伸ばす。

 

「菜々子、食事だって言ったでしょう?」
 母のヒステリックな声にかぶせるように、父がのんびりと、
「貴之も、降りておいでー。お年玉はいらんのか?」
 と、続く。
「まだ眠いよー」
 と貴之が隣の部屋で返事をしている。
 スマホを取り出した。

 

 タビケンのグループラインには、新年の挨拶が連なっている。
 ジヒョンは、律儀な挨拶の後に、殊更長い書き込みをしていた。

 

〈私事ですが、ご報告いたします〉
 とした上で、博多で尊に会えたこと。卒園以来に会えた尊の家で、正月は過ごさせてもらっている。尊は難病であるALSを患っていて、すでに気管部の切開も行っている、などの重たい事実が続き、
〈もし、この病気に関する新しい治療法や薬の情報がありましたら、どんなことでもいいから教えていただきたいです。
 新年のご挨拶にふさわしくないかもしれませんが、皆さんは同じ医師を目指す人たちでありますから。    博多より、ジヒョン〉

 

 

 六年の佐々岡春をはじめ幾人かが、すでに海外の文献や新薬の治験についてのレポートなどをファイルで添付していた。
 ジヒョンの行動力に、菜々子は圧倒されていた。
 博多へ行って、尊の家族と一緒に年越しをしているだなんて。本当に、な、と。

 

〈ジヒョン、ついに博多にたどり着けたね。おめでとう。
 そして、親愛なるタビケンのみなさま、今年もよろしくお願いいたします。菜々子〉

 

 そう書き送った。
 ジヒョンと謙太の三人のグループ〈タケル♪〉には、菜々子も素直に近況を書いた。

 

〈謹賀新年。
 結局、昨夜から湯河原に来てるよ。
 ここで心を決めてから、真実を追求して迷子を抜け出すつもりだったけど、もうどうでもいいような、少し投げやりな気持ちにもなりかけていました。今はジヒョンの活躍に教わる思い。明日までこちらで過ごして、午後に帰ります。謙太、ジヒョンは博多の尊くんの家で年を越したんだって。やるよね、ジヒョン〉

 

 すぐに既読がついて、謙太からメッセージが届いた。

 

〈よければ俺が、迷子の救出に行こうかと思うよ。
 久しぶりに、タンデムで冬の海岸沿いを走るのは、どおかな? 寒いけどさ〉

 

 情けないが、謙太の優しさが、不意に胸に染み渡った。それだけでなく、ジヒョンの愛情深さや情熱や、ALSについての情報をすぐに書き込んだハル先輩方の心が皆貴く思えた。
いつものくせ毛が、〈尊くんのご回復を僕らも願います〉と書いたひと言だってすべてが泣きそうなくらい温かかった。
 だから菜々子は、素直に謙太の救出を受け入れることにした。

 

〈あったかくして、来て。謙太、住所は知ってたよね?〉
〈大丈夫、出るときメールするね〉

 

 そのメッセージを読んで、もう一度窓の外に身を乗り出した。抜けるような青い空と、海からの光、そして海の匂いを感じた。
 自分の身に染みているはずだったそれらも、本来は自分のものだったのかどうか、菜々子にはわからなかった。
 もしかしたら全く別のところから、やって来た人間なのかもしれなかった。

 

 

「菜々子! いい加減にしなさいよ」
 階下からの声に、パジャマを着替えた。黒のタートルネックのセーターに、昨夜来た時と同じデニムを穿いた。髪の毛をくるくるまとめてシニヨンにするのは、瞬時にできる。
 そして耳に大きなピアスをつけて、机の上の小さな鏡の前でアイラインを加えた。
 隣の部屋にまだ弟が寝ているのはわかっていたが、そのまま一人で階下に降りた。

 

 こちらを見た母の目が、なんとか着替えたわけね、と意地悪に言っているように見えた。
 ここが自分の実家なのだと思いたかった。今回こそは、何があってもそう思いたかった。けれど、そんな程度のことで、母は自分を非難しようとしたり、受け入れようとしたりする。
「今日は、あなたのために着替えましたからね」
 口調だけはおどけてみせた。
 弟も、ぼさぼさ頭のまま階段を降りてきた。
「おめでとうございまーす。いい天気じゃんね」
と言って、欠伸をして、それだけで母は嬉しそうだった。
 ダイニングに座ると、父がお年玉を自分と弟に手渡した。
 いつも通りに受け取った。
 強い光がテーブルに舞う。菜々子は心を避難させるように、窓の外を見やった。

 

次回は1月29日(金)更新
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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