第7章 菜々子(5)カルテ
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2021/02/19

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第7章
菜々子(5)カルテ

 

 院長室の扉が開き、白いカーディガンを羽織った看護師が、息子の医長の方に声をかけた。
「医長、次の患者さん、お待ちですけど」
 彼は小さくため息をつく。
「あと、少しだけ待ってもらって」
「ですけどもう、エコーの準備もできていて、寒そうですよ」
「わかりましたから。すぐ行きますよ」
 長身の息子は立ち上がると、看護師を帰して自ら扉を閉めた。立ったままの姿勢で、菜々子を見下ろすように話し始めた。

 

 

「先ほども申し上げた通り、必ずこちらからご連絡します。私の名刺もお渡ししておきます。いいですね? 受付で、もう連絡先は記入してくれましたね?」
 菜々子は名刺を受け取ったが、そこには医学博士という文字と医長の肩書き、産院の住所や代表電話しか書かれていないのを見た。
 自分の気持ちだけが、宙ぶらりんになった気がした。
「さあ、では今日はもうこれで一旦お引き取りください。院長、後で話しましょう」
 帰れと言われ、菜々子はテーブルの上に広げた書類を片付けようとしたが、うまく手が動かない。書類がばらばらと応接テーブルからカーペット敷きの床にこぼれ落ちてしまう。
「なんかこれ嘘っぽいな」
 と、思わず独り言を呟いていた。
「真実が知りたいだけなのに。さっきから、そう言っているのに。なぜ、今ではだめなの?今すぐ、調べてくれたっていいじゃないですか? 今日はもう何も用がないって、院長先生は言ってましたよね」
 自分から出ていく声が、凍えかけているように震えた。

 

 法医学教室では、何も後回しになどされなかった。自分はただ、本当のことが知りたいだけだ。自ら知ろうと、ようやく決意したのだ。自分なりの、これからの人生をかけてここまで来た。知らないままでは、終わらせるわけにいかない。お終いにはできないことがあるのを知ったのだ。そうでないと、自分は迷子のままで、これからどう人を好きになっていいのかさえわからない。自分の根がわからない。
「だったらね、宮本さん、事前に連絡することもできたでしょう? カルテだって果たして残っているのかな。父も、もうこの年齢です。少し時間が欲しいと言っているんです。いいですね?」
 そこまで言うと、父親に向かって丁重に伝えた。
「院長、私はひとまず診察に戻りますよ」
 資料は足元にこぼれていた。十五の座位が色別に印刷されたDNAの鑑定結果が、カラフルに存在感を主張していた。
 今は見てももらえなかったが、大切な自分の証だ。菜々子が拾おうとしたとき、皺の寄った白い手が同時に伸びてきた。高山義哲が、その紙を拾った。

 

 

「あなたはご自分で、これを?」
 渡された用紙を受け取る。
「法医学の先生が手伝ってくれました」
「今は、親子鑑定は99.8パーセントの精度だそうですね」
 菜々子は頷いた。
「そう聞きました。だから、調べてみようと思いました。私の場合は、珍しいケースでした。父とも母とも違う、遺伝子が検出されました。日本人としても稀だと言われました」
 院長は立ち上がると、もう一度机の前に立ち、電話の内線ボタンを押した。なかなか返答がなかったが、ようやく繋がった。
「よく、待たされるんです」
 電話口を押さえて菜々子にそう言ったあと、
「コーヒーを二つ、入れ直してください。すっかり冷めてしまった」と、頼んだ。
「お父さん、そう簡単ではありませんよ。色々準備が必要です」
 と、息子が父親の方まで歩み寄り、半分諭すような口調になったとき、高山は菜々子にこう言った。
「いい息子でしょう? 立派な医者に育ってくれました。だが、あなたを取り上げたのは、彼ではなく私です。カルテを探しましょう。必ず、取ってあります。ここでは、何十年前のものでもね。当然のことです」

 

 再びコーヒーが運ばれてきて、菜々子の最初の手つかずのカップはさげられていった。高山はふたたび角砂糖を落として、スプーンでかき回した。
「実は私は記憶力が悪い方ではありません。息子がどう思っているかわかりませんがね。湯河原からの患者さんのことは、覚えがあります。旅館業の忙しさを時折話しておられた」
 ここへ通った若い日の母を想像した。どうしても子どもが欲しくて、わざわざ世田谷まで通ったはずだった。生まれたとき、嬉しかったのだろうか。赤ん坊は可愛かったのだろうか。そして、その子とは私だったのだろうか、と菜々子の脳裏はまた、ここへ来る前の堂々巡りになる。

 

 

「宮本さんとおっしゃったね。あなたなりに深い思いでここへいらしたのでしょう。カルテには私自身で当たりましょう。ただ、一つ問題があります」
「問題というのは?」
「私が担当した患者さんは、あなたではなく、あなたのご母堂だということです」
 慌てて息子の方も口添えした。
「そうですよ。お母様にもお見えいただかないと、出産時のことをお話しするわけにはいかない」
 部屋を出るタイミングを逸してしまったようで、ソファの端に座っている。
 菜々子は思わず、唇を噛んだ。
「それは、マストでしょうか?」
 言われてみたら当たり前のことに、菜々子は気づいていなかった。母がここで出産した可能性としては、体外受精だったと考えるのが妥当だ。でも母からは、それすら伝えられたことがないのだから、母やこの産院が必死に守ってきた秘密だったのかもしれない。

 

「母は、もう亡くなりました」
 高山は、嘘だと気づいていただろう。けれど何も言わずに、またその年輪のような皺を浮かべた目が菜々子を見据えた。
「父君は、どうですか?」
「父は……忙しくて」
 正月も、新聞の囲碁欄を見ながら、白黒の石を碁盤に並べていた様子を思い出し、力なく言った。
「何があったにせよ、皆で当たらなくてはいけないと思います。ここまで、来てくれてありがとう」
 その静かな声に驚いて見上げると、
「うちのコーヒーは、悪くないはずです。どうぞ」
 そう言って彼は、黙って目を閉じた。

 

 

 外へ出ると、産院の前の道を挟んで向かい側のガードレールに、ライダースを羽織った謙太が座っていた。
 菜々子を見つけると、両手を前に組んだまま、黙ってこちらを見つめていた。
 頼まれたわけでもないのにやって来て、すぐにどうだったかと訊くわけでもなく、ただじっとそこにいて、謙太はバカだと菜々子は思った。そして、そんな謙太だけが今の自分の宙ぶらりんな気持ちを、掬い上げてくれる気がした。
 信号待ちをして、ゆっくり横断歩道を渡り、謙太の元へとたどりつき、菜々子はその横に座った。
「あんたって、ガードレールが似合うね。宿り木で羽を休めているみたいに見える」
 謙太は、ここで煙草を吸っていたようだ。少し煙草の匂いがする。でもちゃんと吸い殻をしまう容器を持ち歩いているのも知っている。そういう準備をするときの謙太は、大人に見える。

 

「隣に妊婦がいるってのに、煙草臭いじゃん」
 産院から出て来た自分をそう言ってみる。
「妊婦さんは普通ガードレールには座らないと思うけどね」
「まあ、バイクにも乗らないか」
「菜々子なら、平気で乗ってそうだけど」
 謙太の長い足がブラブラと揺れていた。
「どうだったって訊かないの?」
 黙っているので、謙太からもらい煙草をする。体の真ん中に染み渡っていく。煙に気持ちが落ち着く。ライダースの匂いと、煙の匂い。それが合わさったのが、謙太の匂い。
「まだ今日は時間、もらえる?」
「いいね、菜々子からお願いごとされるの。でもその前に、吸殻はもらっとく」 
 わずかに残った煙草を菜々子から取り上げると、謙太はブーツの底で火を消して、ボタンで開閉する携帯用の灰皿に収めた。

 

「母が来ないとだめだって言われた。それは医者の守秘義務として当たり前だから。だから、サーちゃんに頼もうと思う」
「お母さん役をやってもらうってこと?」
「それしかないと思う。サーちゃんなら、やっぱりうちの母と少し似てるから」
 少しの間があって、
「おっけ」
 と、謙太は腰を上げてヘルメットをかぶった。
 菜々子の思いつきに完全に納得しているわけではなさそうだったが、止める気もないようだった。

 

 

 ジャンパーのポケットから取り出したスマフォで、菜々子は、サーちゃんに連絡した。今から行っていいかと訊ねると、明るい声で、もちろん構わないという返事があった。本物の家族みたいに。でも、サーちゃんとだって、血の繋がりなんて全くないのかもしれない。そう思うと、菜々子は自分もヘルメットをかぶり、謙太の背中にしがみつく腕に、力が入る。互いのヘルメットがコツンと音を立てた。

 

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谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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