akane
2018/11/23
akane
2018/11/23
ややこしい近現代史も、逆から読めば一気に理解できる!
『日本史は逆から学べ 近現代史集中講義』(光文社知恵の森文庫)の著者で『世界一受けたい授業』(日テレ系)の日本史講義などでもおなじみ、河合敦先生による最速×超ざっくり近現代史講義(全6回)。日本の近現代史を、「なぜ?」「どうしてそうなったのか?」と一問一答形式でさかのぼり、因果関係を分かりやすく解説していきます。
第2回目は、高度経済成長期からスタートです!
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Q1)なぜ1955年から20年近くも高度経済成長が続いたのか?
→これは、池田勇人内閣が革新勢力との対決をさけ、経済政策に力を入れたからです。
Q2)なぜ池田内閣は、経済政策に重点を置き革新勢力との対決をさけたのか?
→池田は経済重視のスタンスを取ることで、国民を政治・思想闘争から引き離したかったとされています。前代の岸内閣に対して起こった60年安保闘争により、日本の社会は大きく混乱してしまいましたから。それに経済が良くなり給料が上がれば、内閣支持率があがり、野党など革新勢力はおのずと弱まりますので。
Q3)なぜ岸内閣は日米安保条約の改正を強引に進めることができたのか?
→自民党が一党優位の状態(55年体制)にあったからです。サンフランシスコ平和条約と同日に調印された日米安保条約は、日本にとって不平等な内容で、岸内閣はこれを双務的なものへ改定しようと考えましたが、岸の強引な手法に国内が反発し大規模な闘争に発展しました。それでも自民党は数の力で押し切りました。
Q4)なぜ保守一党優位の55年体制が確立したのか?
→これは直前に起こった社会党の統一が原因です。社会党は長く左派と右派に分かれ別の政党のように活動していましたが、1955年2月の選挙での大躍進を機に同年10月に再統一を果たしました。これをみた日本の経済界は国の社会主義化を心配し、自由党と日本民主党に合流するよう働きかけました。その結果、同年11月に自由民主党という巨大な保守政党が誕生しました。以後、一党優位の状態で自民党が政権を握り続けます。これを55年体制と呼びます。この数の力を背景に、岸は日米安保条約の改定を進めたというわけです。
Q5)では、なぜそもそも日本は、社会主義陣営との講和を断念し日米安保条約を結んだのか?
→米ソ冷戦下で、アメリカの傘下にある日本が社会主義陣営と講和を結ぶ全面講和論は空論でした。だから吉田茂内閣は現実的な選択をし、なおかつ再軍備の負担を避けて、経済復興に全力を注ごうと日米安保条約を結んだのです。後年、岸内閣が改定に乗り出し、大規模な闘争に発展する日米安保条約ですが、締結当時の吉田首相は国の経済事情から条約に調印しました。
Q6)なぜアメリカは占領政策を転換し、日本に独立、再軍備と経済復興を促したのか?
→米ソの冷戦が激化し、アジアに次々と社会主義国家が誕生するなかで、日本を西側陣営の砦にしようと考えたからです。当初アメリカは、日本の弱体化を進めましたが、国際情勢の変化から、日本を独立させ、早急に経済的に自立させることにしたのです。
Q7)なぜ日本は短期間で民主主義・自由主義国家になれたのか?
→これはアメリカが早急に軍事力を解体したうえ社会から軍国主義者を排除し、国民に自由を与えた結果です。当初、アメリカは日本が二度と自国の脅威にならないよう革命的な民主化政策を断行させ、経済も弱体化させる占領統治方針をとっていました。アメリカの統治下にとられたこうした施策により、日本は短期間で大きく変わりました。
Q8)なぜ日本は連合国に降伏したのに、アメリカに単独統治されたのか?
→これは、太平洋戦争で完膚なきまでに日本を敗北させたのはアメリカだったからです。日本統治の最高機関は11ヶ国からなる極東委員会(本部・ワシントン)でしたが、委員会の方針はアメリカ政府を通してGHQに伝えられました。このためアメリカ政府に都合の良い政策しか実施されませんでした。
Q9)なぜ日本は太平洋戦争でアメリカに負けてしまったのか?
→圧倒的な国力の差があったのに、アメリカに戦いを挑んでしまったからです。
次回「なぜ日本は無謀なアメリカとの戦争を始めたの?」に続きます!
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