akane
2019/01/28
akane
2019/01/28
自ら吃音があり、幼少期から悩み苦しんできた医師の菊池良和さんは、無事、大学に入学することはできたものの、吃音の悩みは依然として解消されませんでした。大学時代に特に困ったのは昼食時でした。吃音があったため、口頭で注文を伝える店は避け、食券制の店を選ばざるを得なかったのです。また、食堂のようなざわざわする場所では、どもりの症状は通常より強くなるため、食堂という場所は居心地のいい場所ではありませんでした。さらに困ったのが昼食時の雑談です。たとえば、「あ、あ、あ、……」と言葉がなかなか出なくなったとき、相手はご飯を食べる手を止め、身体を近づけて聞き取ろうとしてくれます。でも、ようやく出てきた言葉は、
「あ、雨が降ってきたねぇ」
だったりするのでした。つまり、相手の手を止めてまで言うほどでも内容のことが多かったのです。これは吃音者特有の悩みであるとも言えるでしょう。菊池さんは依然として吃音の悩みを抱えながらも、就職活動をスタートさせます。
大学2年生のとき、書店である本を見つけました。
『どもりは治る』
タイトルを見たときは、身体が震えるような思いでした。どもりを「治す」方法があるのだ! と。自分の中の既成概念が覆され、この本を読んでみたいという気持ちにかられました。その一方で、もしこの本を読んでいたら、周りの人から「あの人はどもりだ」と思われないかと怖くもなり、その日は遠目に眺めるだけにとどめて帰りました。
次の日、またその書店に行きました。昨日見た本の表紙には、「治癒へのキーワードは『丹田力』。この生体工学法なら驚異の改善率90%」と書かれてあるのを確認して、今度は手に取り、パラパラとめくりました。実際にこの訓練法でどもりが治ったという体験談も載っていたので、さらに興味が引かれましたが、買うときにレジで「あの人はどもりだ」と思われるかもしれないと不安になり、その日も買うことはできませんでした。
そして3日目。ついに意を決して買いました。帰ってじっくり読んでみると、そこには、「矯正バンドで吃音を治すことができる」とあります。東京の矯正所での実地訓練が40万円、教材だけ送ってもらう通信販売で20万円。
「20万円払えば吃音を治すことができるんだ!」
期待は一気に高まりました。積み立て貯金をしていた10万円とバイトで貯めた10万円をはたくことにして、すぐに購入申し込みを行いました。そしてしばらくして家に送られてきたのは、6冊の薄い教本に、一見普通のゴムバンドとマウスピースの一式でした。それを見たとき、
「これで20万円か……」
と思う気持ちもあったものの、吃音が治るならば安いと思い直して教本を読みました。
まず、第一段階の腹式呼吸を学ぶために、5キロのダンベルを買ってきて、朝夕それぞれ2時間ずつの練習を行いました。日中、常に腹式呼吸を意識するための練習です。下関からの新幹線通学に加えて、バイトもしていたため、朝は6時起きで帰宅はいつも24時です。帰宅後、夕食を食べて風呂に入ると深夜1時過ぎになります。それでも、1時から3時まで腹式呼吸訓練を行ってから寝て、4時に起床、そして6時まで訓練を行うという生活を1週間ほど続けました。
睡眠時間1時間。当たり前ですが、続くはずもありません。結局、この訓練法は断念せざるを得ませんでした。
「時間があればできるのに……」。そう残念に思う一方、時間が有り余っている上に根性のある人しか治せないなんて、前時代的な治療法である気がしてなりませんでした。
吃音矯正グッズがうまくいかなかったという残念な気持ちを感じていた同じころ、NHKの教育番組で、「吃音のある人のセルフグループ」について取り上げた番組をたまたま見る機会がありました。それは「言友会」という名の組織でした。吃音の人たちが集まって互いに悩みを打ち明けたりしているこのような組織があることを、私はこのとき初めて知りました。
初めて参加したとき、私には、大半の参加者は、みな、スラスラとしゃべることができているように感じられました。
吃音というと、
「あ、あ、あ、あ、あのね」
と連発する人というイメージを持っていたのですが、その例会では、明らかな連発性吃音の人は少ないように感じられました。
このとき私は、吃音というものは微妙なものなのだろうと思いました。
そんなある日のこと、母から次のように話しかけられました。
「毎週水曜日は帰ってくるのが遅いけど、何をしているの?」
私は嘘をつくのが下手なので、少し考えてから正直に言いました。
「言友会に行っているんだよ」
「言友会って、何かの政治団体?」
「いや、言葉がどもる人のグループだよ」
私がそう答えると、母はびっくりしたようでした。
「あんた、まだどもりがあったの? すっかり治っていたと思っていたのに」
同居している母親でさえ、吃音は治ったと考えていたことに驚きました。あらゆる手段を使って吃音のことを隠していたので当然とも言えるのですが、こんなに身近にいる人でもわからないのであれば、ましてや家族以外の他人はわかっているはずがないようにも思いました。そしてきっと、《吃音を隠す → 他の人は気づかない → 悩んでいることに気づいてもらえない → 一人で悩みを抱え込む》という流れの中に私は落ち込んでいったのでした。
医者の世界でも、もちろん就職活動があります。病院探しは、まず見学実習に申し込み、1日から3日間、実際に見学させてもらった後、8月に面接試験を受けるという流れでした。
一番緊張したのは面接試験でした。ちょうど7月末ごろから吃音の調子が悪くなり、自分の名前を言うのもとても時間がかかってしまい、一つ目の病院では言いたいことの半分も言えず悔しい思いをしました。二つ目の病院では、見学の際、院長先生と話したとき、緊張のあまり回りくどい置き換えを使いながらさらにどもってしまい、
「君の言っていることは、まったくわからん」
と言われて、とても落ち込みました。しかし、当時の私は、徐々に吃音に左右されない人生を送る自信を持てるようになってきたころでしたので、
「今度こそ、失敗しないようにしよう。どもりから変に逃げるよりは、どもったとしても、丁寧にゆっくり話そう」
と心の中で誓いました。
本試験での面接は、自分が医師を志した理由、患者さんと向き合う姿勢、医療関係で興味のあることについて聞かれました。質問は、自分が前もって準備していた内容とだいたい同じだったので、どもっても丁寧に答えようと思い、とつとつとした話し方ではありましたが、自分の熱い気持ちを語りました。すると院長もにっこり笑って、
「この間は特別調子が悪かったのかなぁ」
と言われ、
「田中角栄も昔はどもりだったらしいよ」
と、吃音のことにも軽く触れてくれたのです。このとき、どもりはしたけれども、言いたいことは言えたという達成感はありました。
三つ目の病院でも面接を無事に終えたのですが、結局、三つ目の病院に内定をもらうことができました。しかし、あくまでも内定なので、医師国家試験に合格しないと取り消しとなります。
国家試験は、卒業を控えた6年生の2月中旬に行われました。そして2005年3月18日の14時、福岡の博多駅裏の合同庁舎で合格発表がありました。
「大丈夫、大丈夫。あんなに勉強したし、テストでも大きなヘマはしていないはず」
と心を落ち着かせました。そして、自分の番号が掲示板にあるのを目にします。
「やった。とうとう医師になれたんだ。これから研修医を頑張るぞ!耳鼻咽喉科に入って、吃音の研究ができたらいいなぁ」
と、大きな目標を達成できた充実感に浸っていました。
26歳の春でした。
以上、『吃音の世界』(菊池良和著、光文社新書)の内容を一部改変してお届けしました。
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