akane
2018/10/01
akane
2018/10/01
「善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも戦うに非ざるなり」(孫子)
戦国時代、トップは必ず一番後ろにいた。
それはそうだ。自分が殺されたら負けなのだ。矢が飛んでこない一番後ろのほうにいて、やばくなったらとっとと逃げる。卑怯と言われようが、それが戦い方というもの。将が生きている限り、復活のチャンスはいつでもある。
敵のシマへなど絶対に乗り込まない。仮に部下が人質に取られて殺されようが、お構いなし。
ビジネス社会でも、実は同じ論理が働いている。
「真面目にコツコツと働いたからといって、幸せになれるわけじゃない」
そう語ったのは、出版社の副社長。
企業のトップにいる人間は、汚れ役はやらない。必ず部下にやらせる。
そして、いざ発覚したら、もちろん自分は一切知らなかった、部下が勝手にやったことである……となる。
また、リスクの大きな仕事も自分ではやらない。これも部下にやらせる。しかし、そのリスクある仕事が成功しそうな状況になることもある。そのときは?
もちろん、これは「私が決めたことです」、そう言って堂々と乗り込んでくる。かくして“勇気ある社長の英断”がここに成立するのだ。
うまくいったら自分の手柄!
失敗したら他人のせい!
自分にとって良いことと悪いことの振り分けがわかっている。
この論理がなければ、実は成功者にはなれない。なぜなら成功者とは、絶対に成功し続けなくてはいけないもの。失敗したら、蹴落とそうとする人間の攻撃材料になるだけなのである。
「あいつが勝手にやったことだ。わしは知らん」
社員がフライングをして失敗したとき、運輸会社の社長がこう平然と言い放ったのを私は聞いている。
しかし、問題は人との関係である。
「うまくいったら自分の手柄、失敗したら他人のせい!」そう言って部下の手柄を、いつもいつも奪っていた人間がいた。もちろん部下はついていかない。優秀な部下がどんどん出ていき、結局は自分のクビを絞める結果となった。
ひと昔前の企業社会では、社長の罪を背負って自殺する管理職の人間までいた。もちろん肯定されることではないが、かつての成功者たちは「俺が死なないために犠牲になってくれ」と言える人間関係を粘り強くつくってきたことも確か。
人生を賭けた真剣勝負にきれいごとばかりでは通用しない。
急激にのし上がった人は多かれ少なかれ、どこかに後ろめたい傷を隠し持っているのだ。一切のリスクを排除して大きなリターンを得ようというのはあまりに虫がいい話だろう。
勝ち残る人は、「汚れ仕事」をちゃんと自覚し、手を打っておく。関与の証拠を残さない。発覚したときの筋書きを用意しておく。場合によっては、スケープゴートになる他者を想定しておく。汚いといえばそれまで。
ただ、昔から一代で名をなした者はみなこうやってきたのだ。荒っぽい商人や疑惑が絶えない政治家で、「刑務所の塀の上を歩く男」なんて評された人がいるだろう。逮捕されれば世間はとやかく言うが、逮捕されるまでは成功者で通っている。塀の中に落ちれば落伍者。本人は塀の上で踏みとどまり、誰かが塀の中へ入る。平衡感覚の問題だ。
それに、評価されたいのなら、仕事そのものでなく、“部下を育てた”ということで評価してもらえばいい。今の経営者で注目される人は、みな社員たちが生き生きと働ける場をつくった人なのだから。
こうすれば当初の目的も達成される。それがわかるかな?
そう。頭のいい人間は、自分がいつまでも後ろにいられる、というわけだ。
非情な人間は、自分が「卑怯者」だとわかっている。
過程はどうあれ結果が全て。生き残った者が勝つ。
成功したいなら、「成功は自分の手柄、失敗は人のせい」を通せ。
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