akane
2018/09/28
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2018/09/28
マスメディアはときどき、「首都高は1964年の東京オリンピックのために造られた」と伝えることがある。 これは本当だろうか。
正確に言うと、正しくはない。首都高の一部区間は五輪関連街路として整備されたのでそうとも言えるが、首都高そのものは、東京の道路の交通処理能力を補うために五輪とは無関係に整備された。そもそも五輪は2週間程度で終わってしまうイベントなので、そのためだけに巨額の投資をして首都高という巨大なインフラを造ったとすれば、その会期後のことを考えずに進めた無駄な公共事業となってしまう。
五輪の招致は1959年5月に決まったのに対して、首都高の工事はその前の同年2月に始まっていた。その8年前の1951年には、東京都が交通に関する予備調査を始めていたし、1953年4月には、第2章で触れた首都建設委員会が「首都高速道路に関する計画」を国と東京都に勧告していた。招致前月の1959年4月には、首都高速道路公団法が公布、施行されていた。つまり、招致決定は、首都高を整備する動きがすでにあった後であり、着工後だったのだ。なお、着工時は、まだ首都高速道路公団が発足していなかったので、日本道路公団が工事を担当した。
首都高の整備に携わった山田正男氏は、『首都高速道路公団二十年史』の巻末に掲載された座談会「公団20年のあゆみとその展望」で、次のように述べ、五輪との関係を否定している。
その当時、幸か不幸か、ほとんど同時にオリンピック東京大会の招致が決定しましたので、まるでオリンピック大会のための道路みたいに悪口を言われました。 首都高が国威高揚?
ただし、1964年大会の招致決定が、首都高整備の追い風になったのは明らかだ。もし首都高の一部区間が五輪関連街路に選ばれなかったら、整備の必要性が地域住民に理解されにくく、工事がスムーズに進まなかったからだ。
また、結果的に首都高は1964年大会の重要な会場輸送ルートとなり、その成功に大きく貢献した。また、翌年の1965年に世界住宅・都市計画会議総会が東京で開催されたこともあり、山田氏は同座談会で次のように述べている。
首都高速道路は、世界の都市高速道路のモデルとして大いに国威を高揚することがで きました。 となれば、同時期に整備された東海道新幹線は、世界最速の営業鉄道としてデビューしたので、首都高と同様に「国威を高揚」させたと言える。
1964年大会を機に進められたインフラ整備が、多くの人の記憶に鮮明に残ったのは、おそらくこのためであろう。
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『オリンピックと東京改造――交通インフラから読み解く』(川辺謙一著、光文社新書)より抜粋しました。
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