akane
2019/06/27
akane
2019/06/27
愛の不毛を感じるとき、「私にとって愛が不足しているのは愛を誰かにもらっていないからだ」と感じてしまうのはなぜなのでしょう。
ここで、自分に問い直してほしいのは、ひょっとして、愛をお金と同じように、「使えばなくなるもの」と思っているのではないかということです。
愛はまるで通貨のように流通していて、うまく稼ぐ人のところにはざくざくと入っていっている。
そういう人の心の財布には、愛がいっぱい貯まっているはずだから、周りのみんなにもふんだんに与えることができるだろう。
でも、一方の私の心の財布には、愛がもうほとんどない。誰にもあげることができないのは、財布に愛が入っていないからだ。だから少し頑張って、誰かから愛をもらえるようにしなくちゃいけない、というふうに感じているのではないかということです。
これは私たちが「使えばなくなる」という近代の資本主義的なものの見え方に、慣れすぎてしまっているからです。
もっと言うと、お金も愛も、「使ってなくなったら困る」という不安こそが、不毛地帯を作り出すのだと言ってもいいでしょう。
お金を自分で使ったことのない子どもは、お金への不安も持っていません。「なくなったら、お財布をぽんと叩いたらまた出てくるよ」という気楽さですが、これは、現代社会の拝金主義的なしくみに気づいていないからです。
だから子どもにとってお金は無尽蔵なのですが、実は、愛の本質も無尽蔵なのです。
むしろ、使えば使うだけ増えていくものなのです。
だから、「私の中の愛は、いくら使ってもなくならない」と思えるようになれば、それがもっとも不毛地帯を越えていくことになっていきます。
世界にあるものは、2つの種類に分けられます。
ひとつは使うと減るものであり、もうひとつは使うとどんどん増えていくものです。
別の言い方をすれば、世界を「モノ(物質)の集合」と見るか、「エネルギーの流れ」と見るかによる違いとも言えます。
今、私たちが籍を置いているのは、圧倒的に「使うと減るモノ」の価値観がほとんどの社会なのです。
たとえば、雨が全然降らないのに水をどんどん使っていけば、貯水池がしだいに空っぽになっていき、給水制限をしなければならないということになります。
基本的に、かたちのあるモノ(物質)というのは資源に限りがあって、それを使いきればなくなると考えられています。お金というのはその代表例で、だからこそどれだけあっても「これじゃ足りない」と、いつも不足を数えるような状況になってしまっているのです。
お金については、「使ったらなくなる」という不安も、経済社会が成り立っていくためのある種の役割を果たしています。みんなが「いくら使ってもなくならない」と思っていたら、貨幣経済は成り立っていかないからです。
しかし、今の社会ではお金があまりにも価値を持ちすぎてしまったために、どんなものでも、使えばなくなると思われすぎています。
いったい、いつの頃から使ったらなくなるものの価値観に洗脳されきった世の中になったのだろう。少なくともつい最近高度成長期が始まる前ぐらいまでは、そういう2つの極を人間というのはゆらいでいて、どちらかが暴走しそうになったときにもう一方が止めていくというバランスのよさがあったのです。
しかし今は「使うとなくなるもの」の暴走が止まらないという感じです。
エネルギーの流れのように、使えばなくなるわけではないもの、むしろ使えば使うほど増えていくことのできるものに対する想像力は、現代においてあまりにもひからびてしまっているのです。
気力や体力もそのひとつです。減っていく状態が目に見えるわけではないのに、使えばなくなる、消費してしまうと思い込まれています。
たとえば、ノルマを抱えた営業マンが一日中セールスで町中を歩きまわっているのと、気持ちの良い高原をハイキングをしているときとでは、代謝エネルギーが同じでもその体力や気力の使われ方には大きな差があります。
ハイキングなら、山道を延々と歩いて汗をかき、もう足が前に進まないほどに体を酷使したとしても、頂上からの景色を見渡したときに別の神経系統が刺激され、内側から感動が湧き起こって、疲れがすーっと消えるような体験をします。
さんざん使って失ったと思われた体力や気力が戻ってくるような、いわゆる「元気をもらった」というプラスの感覚が味わえるのです。
ところが、今は社会そのものがもう、小学校の子どもでさえも、青空ハイキングというより営業マンのように、基本的にノルマをこなすライフスタイルになっています。
気力も体力も、お金と同じように「使えばなくなる」ということが実感になっていくのです。
そうした中で、愛もまた誤解を受けているのですが、現実には愛は「使えば使うほど、どこかから湧き上がってきてさらに増えていく」というものの中心にあるものなのです。
つまり、愛するというのは、あたかも錬金術によって鉛を貴金属に変えるような体験と言ってもいいでしょう。
私の世界はすべて鉛でできていると思っていたのですが、実はそこには金やダイヤモンドやエメラルドが隠れていると言うのです。
ではいったい、それをどうやって探せばいいのだろう。
何か特別なしかけや道具が必要なのかと思っていたら、実は私が自分のこの手で触れるということこそが、鉛を貴金属に変える錬金術なのだということがわかるのです。
ディズニーアニメのモチーフとしてありそうな話ではありますが、物語の中ではありそうでも、実際に自分の身に起こるとは思いもよらずにいるものです。
でも愛はそういうものなのです。
愛はなくならない。
私が触っていくことで、世界は輝かしい愛にかたちを変えていく。
そのことを信じることから開けてくる世界なのです。
株式会社光文社Copyright (C) Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.