akane
2020/12/23
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2020/12/23
2019年の参議院選以降、れいわ新選組やN国党の人気ぶりは歓迎されるよりはむしろ批判的に評されてきました。
れいわ新選組は「ファシズムの兆候である」「危険な極左政党である」と、党首・山本氏への熱狂的支持が警戒され、過激な政見放送で話題をさらったN国党に関しては「面白半分で投票した有権者が多かったのではないか」「国民が馬鹿になった」と評されその得票結果にも懐疑の目が向けられました。
中でも、「ポピュリズム」という言葉によって、彼らの躍進が説得力をもって説明されたと著者の真鍋さんは書きます。
“ポピュリズムとは、人民主義と訳されたり、大衆迎合主義と訳されたりしている政治学の用語ですが、一般的にわかりやすい出来事を例に挙げると、2001年~2006年の「小泉旋風」でしょう。当時の自由民主党総裁の小泉純一郎は、郵政民営化に反対する議員などを抵抗勢力と呼んで、バブル崩壊後の鬱屈をもてあましていた庶民を味方につける手法で選挙に圧勝しました。つまり、カリスマ的な人物の人気を最大限に利用して、それまで政治に無関心だった無党派層などを扇動し、一種の独裁政治のような体制を作ってしまうイメージです。”
しかし真鍋さんは、このように彼ら新党が一面的に評され、人々の支持を集めた理由を「ポピュリズム」などともっともらしく説明することは、「これほどまでに壊れてしまっている」日本社会の実情を見過ごすことになると警鐘を鳴らします。
“中間層の解体を推し進めた格差社会の深刻化と、コミュニティの空洞化を意味する社会的孤立の全面化のダブルショックが、れいわ新選組とN国党の票田に直結しているのです。このことを皮膚感覚としてどれだけ実感できるかどうかが、これからの日本の未来を占ううえで欠くことのできない状況認識といえます。しかし、残念ながらマスメディアや政治家を含め、この国の権力者とされる人々は、いまだ事の重大性を真正面から受け止められずにいます。このような現状に対する決定的なズレこそが「社会の分断」を加速させているのです。”
本書では、れいわ新選組とN国党の躍進について、日本人の6人に1人が相対的貧困状態という格差社会の深刻化、家族や地域社会などソーシャル・キャピタル(社会資本関係)の崩壊による個人化といった社会問題に加え、人々がソーシャルメディアを初めとしたインターネットコンテンツに常に触れながら生活するようになった状態と関連付けて考察されています。真鍋さんはこの状態を「過剰接続の時代」と呼び、次のように説明します。
“過剰接続の時代とは、一言で言えば、万物がフラットなコンテンツとして消費され、政治さえも「コンテンツ」の一つに過ぎなくなるということです。”
“わたしたちは知らず知らずのうちに、デバイスと距離を取ることが難しくなっているのです。……(中略)……そこでは内容の“真贋”や“善悪”に関係なく、コンテンツとして価値があるか否かが問われます。ここにおける価値とは「目新しさ」「面白さ」です。ネットの動画や画像、テキスト、それらをまとめあげる表現、パフォーマンス等々が、個々の重要性などは脇に置かれ、見る価値があるのか、参加する価値があるのかという好奇心によって瞬時に判断されていくのです。「可処分時間の奪い合い」とはよく言ったもので、これが政治の舞台においても同様の条件を課されているのです。”
真鍋さんは、このような状況下で人々の情動を掻き立て、興味を引くことで、れいわ新選組、N国党はそれぞれ支持を広げてきたことを、彼らのTwitterやYouTubeなどのソーシャルメディアを活用したパフォーマンスを例に、次々に示しています。
彼らの「政治のコンテンツ化」とでも呼ぶべきソーシャルメディア上での広報活動は、政治に興味を持つ人を増やした、とポジティブに捉えることもできるでしょう。しかし真鍋さんは、そこには決して楽観視することはできないソーシャルメディア独特の力学があるということを本書の主旨の一つとして強く訴えます。
警戒すべきソーシャルメディアの特徴。それは、注目や関心を集めることが至上の価値であるがために、過激な感情を引き起こし広げる点です。
“注目に値すべきことがすべてであるネットの海原に現れた海坊主のごとき過激なアジテーター(扇動者)が、分かりやすいロジックで不安や不満の感情のはけ口を提供するのです。
「自分たちがもらえたはずのパイを奪って、のうのうとふんぞり返っているのは誰か?」「労せずして巨大な資本や特権を享受している既得権益層に決まっている」と。”
れいわ新選組やN国党が支持を集めた理由の一つには、既得権益層の悪事が日常的に露呈していくソーシャルメディア上で生活不安や既成政治・エリートに対する不満を抱えた庶民の感情を上記のように、怒りの感情として掻き立てたことがあります。このような激しい感情の発生と拡散がソーシャルメディア上では「いいね!」やリツイートの応酬によって容易に起こり得るのです。しかもそれが、自分の生活に実際に関係がある重要な出来事でなくても起こることが問題だと、リアリティ番組の出演者がソーシャルメディア上の炎上で自殺に追い込まれた「テラスハウス事件」を例に取り上げて真鍋さんは指摘します。
“このような一般の人々の生活とは直接的に何の関係もない、製作者の意図や作為によってコントロールされた、つまりはメディアによって創造された虚像に対して、少なくないネットユーザーがソーシャルメディアの個人アカウント目掛けて「消えろ」「死ね」の大合唱を行ったのです。”
“なぜなら、出来事にリアルかそうでないかの線引きがあったとしても、感情にリアルかそうでないかの線引きはないからです。すべての感情、なかんずく強烈な感情にこそ、最も自分に関係するリアルが宿るからです。”
ソーシャルメディア上では、その情報自体が事実かそうでないか自体は重要ではありません。自分の気持ちを激しく動かすものこそが価値があるものであり、自分にとっての事実になってしまうのです。怒り、憎しみ、嫌悪……このような苛烈な感情に裏打ちされた情報がソーシャルメディア上で広がった結果どうなるか、「テラスハウス事件」をはじめとした炎上事件の顛末を目にしてきた私たちはすでに知っています。
今や人々の生活とは切り離せないツールになったソーシャルメディア。そしてそのソーシャルメディア上で人々の心を動かし、支持を伸ばしてきたれいわ新選組とN国党。
「ポピュリズム」政党としての彼らの成長をソーシャルメディアと結び付けて分析した本書には、私たちが注視しなければならない現代日本社会が持つ危うさを捉えるヒントがあります。
文:藤沢緑彩
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