akane
2020/12/22
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2020/12/22
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宗教に、広義に言えばスピリチュアルな非科学的なモノ全般に対して、かたくなに距離を置いて生きてきた。いや、科学がいまだ解明できないことがたくさんあることも、わかっている。それでも、信心で病気が治るとも思っていないし、死ねばすべて終わりで、霊がウロウロしているとかも、信じていない。霊感も、ないはず。癌に効くという健康食品にも、願いが叶うパワーストーンの類にも、なるべく近づかずに済ませてきた。貧乏だから、というのも大きかった。しかしそれらを嫌悪するようになった根本の原因は、貧困ではない。オウム真理教の信者が起こした一連の無差別殺人事件の影響である。
もう大昔のことで、仕事でご一緒する編集者の方々も、地下鉄サリン事件が起きた一九九五年はまだ子どもだったからよく覚えていないという人のほうが多くなった。バブル世代の私たちがあとから連合赤軍のあさま山荘事件を書物で知ったように、いまや若い人にとってあの事件は、知識としてあとから読んで知る過去の事件となってしまった。
私自身がオウム真理教に関わったわけではない。オウム真理教の活動が一番活発だった八〇年代後半、私は渋谷区にある國學院大學に通う大学生であった。女子大生という言葉がメディアで持て囃されて、高級ブランドのバッグを持って、シーズンスポーツサークルに入るような、浮かれた学生たちが東京の盛り場には溢れかえっていた。
しかし一方で、放蕩をよしとする風潮に乗り切れない学生たちも、たくさんいたのである。主に実家が金持ちでもなく、だからといって荒稼ぎのアルバイトもできない、真面目で要領の悪い学生たち。私が通った大学は渋谷にありながら、むしろ地味な学生が多数派だった。消費ばかりが礼賛される世の中はどこかおかしいと考える学生も多かった。それを狙うように、オウム真理教だけでなく実に多彩な新興宗教団体が、駅や通学路だけでなく、キャンパス内を跋扈していた。歩いていれば、勧誘を受けた。
そして私はといえば。恥を語るのは気が引けるのだが、ここを語らないと前に進めないのでしばらくご辛抱いただきたい。高校生の時から仏教に興味を抱いて古語辞典の仏画を模写しているような、少女であった。受験勉強もそっちのけで本を読み、哲学科に潜り込んで、すぐに北鎌倉の円覚寺の学生座禅会に参禅。今でいうなら、スピリチュアル系仏教女子とでも呼べばいいのだろうか。エキセントリックな女学生であった。しかも当時の学問の流行は、ニューアカデミズム。中沢新一の『チベットのモーツァルト』(講談社学術文庫)を読んで、自分も頭のてっぺんに棒を突き刺してズコズコしてみたいと胸をときめかせていた。実際にあれを読んでチベットに行っちゃった男子学生も結構いたと思う。
そして宗教学者で神道家でもある鎌田東二先生の講座にお邪魔するようになり、さらに異界や悟りへの興味を高めてゆく。先生を慕って集う学生たちの中には、新興宗教に実際に入信したり出入りしている者もいた。オウム真理教はいなかったけど。君の前世を見てもらいに行かない? などというお誘いも普通にあった。今思い返すと不可思議な空間だった。
宗教学者自身が学問的、客観的な視点で宗教を研究するのではなく、自ら入信することが、当時は革新的ですごいことだとされていたし、新興宗教だからといって否定的な態度を取らずに、研究対象として扱う研究者も出てきていて、それらを私は、おそらく周辺にいた学生たちは、すごくカッコいいことと捉えていた。そんな流れの中で、オウム真理教の教祖麻原彰晃は、宗教学者と雑誌対談などに出たりしていた。
二年生になると、円覚寺の座禅会には、各シーズンに数日合宿形式で行われる学生座禅会だけでは足らずに土日座禅会にも顔を出すようになっていた。座っている時の、静謐な時間が好きだった。だれとも話さず、静かに自己を見つめる。当時の私には自分とはなにかという問いもなく、ひたすら自己嫌悪からの逃避に使っていたように思う。悟りなど簡単に得られるとは思っていなかった。いや、悟りたいと思う気持ちすらも、エゴイスティックで厭わしかった。
作法をひとつずつ覚え、最初は厳しいと感じたものの、身体が臨済禅の接心作法を体得するうちに、少しばかり楽に動くことができるようになってくる。すると黙って呼吸に集中して座っていればいい空間が、結構楽ちんにも思えてくる。できるようになったという嬉しさもあった。そんな頃、ある僧侶から「こんなところにいないで、早く娑婆に出て行きなさい」と言われる。
他の学生もいただろうか。言われた時には意味がわからなかった。実は両親からも、座禅会に行くことについて激しい叱責を受けていた。どうしてなのか、さっぱりわからない。新興宗教に入信して多額の献金をしようとするならば、親が嫌がるのは理解できる。しかし、古刹の伝統的な座禅会に通っているだけなのですが。むしろ勉強熱心だと褒められてしかるべきなのでは、とすら思った。合コンに明け暮れている女子大生よりよっぽどマシではないか。
今ならば、大人たちの気持ちが少しわからなくもない。放っておけよと思うけれども。
厭世的に暮らし、かつ半端に宗教哲学を学んだ四年間のツケは、当然ながら就職活動にいかんなく発揮された。誰もが簡単に大企業の内定がとれたあの時代に、なかなか就職先も決まらず、さらに決まった先は労基もへったくれもないファミリー系独裁組織で、半年で音を上げた。次に親のいいなりに決めた経理事務の仕事についたものの、経理の世界にまったく適性がなく、こちらからも逃げ出し、追い詰められた末に、趣味で描いていたイラストで、なんとか仕事を得るようになる。
九五年は、挿絵やイラストルポの仕事で、貧乏ながらも暮らしていけるようになっていた。事件が起こる直前の、オウム真理教が何をしたのか、しようとしているのかがだんだんと疑わしくなってきた頃も、鎌田東二や島田裕巳や中沢新一を愛読していた私は、オウム真理教にシンパシーを持っていたわけではないが、世間は新興宗教に対しての偏見が強すぎると思っていた。信仰自体は悪いことではないのではないか。
当時はイスラム原理主義グループによるテロ事件もあったけれど、そう深刻に取りざたされるほどの脅威ではなかった。アメリカ同時多発テロが起きるのは六年後だ。ユーゴスラビア紛争のさなかだったけれども、宗教に民族の問題がからんでいたこともあり、宗教が本来持つ危険性を提起する声もなく、私自身、つきつめて考えることもなかった。
地下鉄サリン事件が起きて、茫然とした。自分はなんて愚かだったのだろう。先にあげた研究者の先生方は、それぞれの立場で、果敢にこの問題に取り組んでいった。当時すさまじいバッシングを受けた方もいる。それはそれとして、私自身だ。ものすごくいい加減に、中途半端に先生方の教えを、宗教を、面白がって読んで、楽しんでいた。ただそれだけ。そういう時代であったといえばそれまでだけど、猛烈に恥じた。
そしてあまりの恥ずかしさに、私は宗教と、スピリチュアルと総称されるすべてのものから、自分を遠ざけた。霊も、超能力も、石の力も、なにもかも、信じない。踏み込まない。とにかく、娑婆でまっとうに生きていくことだけ、考えよう。
で、二十数年が経過した。人並みかどうかは測りようがないけれど、世間の荒波にも揉まれつつ、生きてくることができた。いや、実は最初のほうにも書いたが、癌になった時点で死んでもいいやと思っていたのに、一向に死なない。どころかどんどん体力がついている。なんなの自分。しかも前述したようにストーカー被害で刑事事件被害者になって。癌とはまた全然違うどうにもならないしんどさを背負い込むハメとなる。一方で、同病を支え合って来た友人や尊敬する先輩たちが、再発して闘病していたり、それも甲斐なく死んでしまう。これがしみじみと淋しく辛い。自分にその番を回してくれないことに落ち込む。新たに癌が見つかった友人も少なからずいる。こういう辛さをドコに吐き出せばいいのだろう。
そろそろ、信仰とか、スピリチュアルと言われるもの全般との付き合いを、考え直してみてもいいのではないだろうか。すぐに信仰を持ちたいというわけではない。いや一生持たない可能性もある。でもちょっとフウとかハァとか息をついて、祈ってみたい。そんな気持ちになりつつある。小豆島に来たのも何かの縁ということで、八十八か所を歩きつつ、自分なりの祈りを探してみようか。(つづく)
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