akane
2019/07/11
akane
2019/07/11
僕の手元に、古い一冊の大学ノートがある。四すみは、かなりボロボロにこすれて丸くなっているし、色もはじのほうが幅一センチぐらい茶色く変色してしまっている。
この古ぼけた大学ノートは、二十年以上前のさまざまな思い出がこめられていて、今や僕にとって、とても貴重なものになってしまった。というのは、このノートには、一九五九年(昭和三十四年)二月に、征爾がスクーターをたずさえて貨物船淡路山丸でマルセーユに向かって神戸港を発ってから、二年後、ニューヨーク・フィルと一緒に日本に帰ってくるまでの間、僕たち家族あてに送られてきた手紙の中味がすべて書かれてあるのだ。
そのときは、まさかその大学ノートがあとで役立つとは思いもしなかったが、のちに帰国した征爾が音楽之友社から『ボクの音楽武者修行』という本を出すことになったとき、征爾は、僕が渡したこのノートを見ながら、なんとか一冊まとめ上げたというわけだ。
『ボクの音楽武者修行』の「あとがき」に征爾は、次のように書いてくれた。
(前略)なんとか本にしてくれたのは、まったくまわりの人のおかげで、とくに文中に出てくるポン、これはぼくの弟の幹雄ですが、そのポンが、ぼくが外国から自分の両親、兄弟、友だちに出した手紙をぜんぶとっておいてくれて、それを一冊のノートに書き写してくれたのです。そしてぼくが日本に帰ってきたときに、その大学ノートをぼくの目の前に差し出してくれたので、まったく自分の日記帳みたいにそれを追って、なんとか自分がやってきたことや、そのまわりのことを思い出すことができ、それをダラダラと本にしたというのが、この本をぼくが書けた裏話です。
僕は、このくだりを読んだとき、
「ああ、ノートに書き写しておいたかいがあったなァ」
と、涙が出るほどうれしかった。
このころの手紙で、いちばん強烈なのはなんといっても、九月のブザンソン指揮者コンクール優勝のときの第一報だ。
一九五九年九月十八日、パリ。
どうも、とんでもないことになっちゃった。ブザンソンの国際指揮者コンクールで、一等をとり、賞金十万円と時計とでかいメン状をもらっちゃった……
こういう書き出しではじまるこの手紙は、いつも電報のように短い征爾の手紙の中ではとびきり長く、うすい航空便の封筒がはちきれそうなくらい丸くなっていて、この大学ノートにびっしり写しても五ページにわたっている。
決して名文ではないが、「やった!」という征爾の気持が素直に伝わってくる手紙で、今読みかえしても興奮してしまう。
まさかこんなことになるとは思わなかったので、オドロイたりうれしくなったりしている。
このコンクールは6月に申し込んだのだけど、〆切りに間に合わなくて7月にダメになり、8月15日ごろ正式にうけられるようになり、それから約2週間ベンキョウした。
このコンクールはパリから四百キロはなれたスイスに近いブザンソン市(ビクトル・ユーゴーの生地)で毎年ひらかれ、今年は第9回目、国際音楽祭と同時に行われる。指揮のコンクールは世界でここだけなので、各国の政府が応募者を派遣している。その中には、オペラ座の指揮者やロンドン・フィルのアシスタントやパリ音楽院の一等賞をとった奴だの、優秀なのがいた。
第一予選は9月7日、これには各国(フランス、アメリカ、イギリス、イタリア、ドイツ、オランダ、ポーランド、ロシアなど)から54名ほど集まり、日本人はぼくだけで、ブザンソンにも一人も日本人が居ず、なんとも心細い。予選で落ちるかもしれないと思ってそのあと近くのスイスへでも見物に入るつもりだったのが、すごい人気で通過した。メンデルスゾーンの「ルイ・ブラース序曲」を8分間で好みの練習法でオケをしこむテスト。オーケストラもお客さんも僕が終ったら「ブラボー」ではやし立ててくれた。
準決勝は9日に17人ほどがサンサーンスの「ロンドカプリチオーソ」とフォーレの「タンドレス」を演奏し、これもぼくは最高点で入った。
9日の真夜中に準決勝の発表があって、10日夜、本選。6人しか通らなかった。
いよいよ本選。オーケストラも一段と上等になるし、会場は二日前にバックハウスがリサイタルをした大劇場。お客も予選と同じようにたくさん入った。
ぼくは6人のうち一番最初に出場するクジが当った。曲はドビュッシーの「牧ぼく神しんの午後への前奏曲」とJ・シュトラウス「ウィーンワルツ」、それと最後はビゴーという人がこのコンクールの為に作曲した妙ちきりんな変拍子の曲を演奏の5分前に初めて見せられてすぐ指揮する、いわゆる「初見」。
これはすごくうまくいって、ぼくの演奏してる間に審査員でもある作曲者が「ブラボー」って言ったそうだ。
十一時半ごろ全部終わって、約一時間待たされてステージの上で発表。おどろいたことには、真夜中なのにお客さんもオーケストラの人もほとんどの人が居のこって結果を待っていた。
ぼくはなんだか落ちつかないから、オケの人と楽屋で遊んでたら、一等をよびだすとき、「ムッシュー・セイジ・オザワ!!」ときて、お客さんやオケの人が
「ブラボー、ブラボー、ブラボー」
パチパチパチとやってくれ、ぼくはみんなから押し出されてお金と時計とメン状をもらいに出た。それからあとは、シャンパンが出て、パチパチカメラでやられて、新聞記者に会ったりで、とんだことになったと思った。準決勝の時には、フォーレはあらかじめオケのパートの中に何ヶ所もミス(マチガった音)を書いといて、それを5分間でさがし出して直すというメンドクサイのもふくまれていた(満点だった)。なにしろ、ぼくにとっては初めての外国人のオーケストラだったし、曲はむずかしいし、フランス音楽が主だったので、100のうち、80まではダメだと思ってたのが、こんなにうまく行って実に愉快だ。
ブザンソンは小型のウィーンのような町で、音楽はまことにさかんで、ぼくは予選のあとからすぐサインをやらされて、頭がいたいと云えば薬屋のオバさんがアスピリンをくれるし、一等になってからは四日ほど町の中をながれているドーヌ河で毎日つりをしたんだけど、音楽会に行ってもカフェーでもサインずくめで、だいぶ小澤セイジを書いた。新聞のキリヌキを送るからポンよんでくれ。そしてシロノネの奴らに見せてくれないか……
(一部省略、手紙より抜粋)
この記事は『やわらかな兄 征爾』(小澤幹雄・著)より、一部を抜粋・要約して作成しています。
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