2019/04/29
藤代冥砂 写真家・作家
『天才の背中』光文社
梅津貴昶/著
乱読派の私だが、並行して読み進める本のセレクトには、対談本を必ず入れることにしている。その気安さと、交わされる会話の中からしか現れない味わい深さは、読書に疲れた脳であっても、座り心地のいい観客席から多くを学べるようで貴重だ。オーディブルと一般読書の中間のようでもある。
日本舞踏家の梅津貴昶さんが、6代目中村勘九郎さん、白州信哉さん、東山紀之さん、首藤康之さんを相手に語り合った「天才の背中」は、各界の巨人たちに可愛がられてきた梅津さんの人となり、凄みが、随所に見られるばかりか、お相手との語らいを通して、表現すること、生きることが、時にはっとするようなやり取りを通して、受け取ることができる、まさに対談本ならではの愉しみに満ちている。
中村勘九郎さんとの対談では、一般人が垣間見れない歌舞伎界、舞踏会の雰囲気が、まるで親戚にでもなって紛れ込んだかのように聞けるし、芸と家との間にある匂いまで嗅ぎ取れるようで、日本のことなのに、別の国を旅しているような異文化体験ができる。
白州さんとの対談では、もちろん次郎、正子夫妻のそれぞれとの逸話も楽しいが、孫の信哉さんとの対談全体を通して、人生をたしなむことについて大いに感じるところがあった。
「たしなむ」ということ。それは生きることの中心軸として語られることは決して多くはなく、大方アクセントよう扱われるが、肩の力を抜きつつ、厭世せず、豊かに一生全体を観劇するように「たしなむ」意識を持つことの面白さを、二人のやりとりを通して勝手に得た気がする。それを声を大にせず、自分でも忘れてしまうくらいに、生きることをたしなみたいものだ。
東山さんは、一度宴席でお見かけしたことがあるが、その佇まいの美しさは、彼の生活の姿そのものであったのだなあ、と確認した。自分が言うのもおこがましいが、しっかりした方なのだなあと感じ入った次第である。芸能界の華やかさがある一方で、実直で律儀な方。
首藤さんと梅津さんは、共に身体を表現の主体とする者通しの共通点が、随所に露見していて興味深かった。日舞と洋舞の違いこそあれ、極めた先が近い場所であることは、それぞれの芸術の高さを知れば知るほど興味深く、また納得もいく。二人とも学校にほとんど行っていなかった、という共通点は、ユーモラスでもあり、小さくない感動を得もした。
好きなことを貫き通すということは、言うには簡単だが、様々な事情や障害を撥ね付ける強さとしなやかさが必要で、さらりとしているが凄みのある話でもあった。ニジンスキーと6代目尾上菊五郎が並んで語られるところは、この二人の対談ならではだし、表現に関しては感情を込めない、なぜなら舞踏やバレエそのものに感情があるから。顔の表情で感情を表したりする必要はない、それは邪魔、という趣旨のくだりでは、大きく同感した。その型、形式、ジャンルに、すでに感情があるのでそれをただしっかりとこなせばいいという考え方だ。
逆に言えば、顔の表情という一般的には最も感情を表現しやすい方法を使わずとも、稽古の質と量がもたらした身体による極められた動きだけで、表現しきれなくては邪道であるとも聞こえる。首藤さんは、顔の表情に頼ったバレエを見ると「もう、いい加減にしてくれ」と思うそうだ。極めた者の言葉は、とても刺激になる。
個人的には、この一冊を通して、「表現に感情を持ち込むな。」は最も印象的であった。あと、「理屈を持ち込むと到着点ができてしまう」という言葉も。
到着点のない動線でありたいと、改めて感じ入った次第。
―今月のつぶやきー
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『天才の背中』光文社
梅津貴昶/著