ryomiyagi
2022/05/20
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2022/05/20
『映画を早送りで観る人たち』光文社新書
稲田豊史/著
時短だコスパだと、何かと世知辛い昨今。私たちは、いったい何にせっつかれているのだろう。ハンドルを握れば、後続車が少し車間を詰めただけで、「あおり?」かと他人を疑い、夜道で背後に足音を聞けば「ストーカー?」かとスマホを握りしめる。いったい何から身を守ろうとして、どれほど神経をすり減らしているのだろう。
日本を代表する時計メーカーであるCITIZENの意識調査(2018年)によれば、日本のサラリーマンの約6割がエレベーターで1分待たされるとイライラするらしい。レジに並べば、およそ3分で同じく6割が苛立ち、ランチタイムの空席待ちはおよそ10分が限界という。それほどに忙しい(?)現代人にとって、最も重要なのはコストパフォーマンス。かと思いきや、近頃の若者が気にしているのはコスパではなくタイパだという。果たして、このタイパとはいかなるものか?『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)に詳しく解説されていた。では早速、本書を紐解いてみよう。
著者は、大手映画配給会社を前職とするライター・編集者の稲田豊史氏。本書のテーマである映画の早送り再生が、近頃流行っているということは知っていたが、さすがに著者は、前職が前職だけに見過ごせなかったに違いない。
倍速視聴・10秒飛ばしする人が追及しているのは、時間コスパだ。これは昨今、若者たちの間で「タイパ」あるいは「タムパ」と呼ばれている。「タイムパフォーマンス」の略である。(中略)
フォロワー数十万人を誇る、あるビジネス系インフルエンサーが、Twitterで映画の倍速視聴を公言したときも、そこについたリプには「コスパが良くなっていい」といった好意的な意見が多かった。
彼らは映画やドラマの視聴を、速読のようなものと捉えている。速読と同じく、訓練によって映像作品を速く、効率的に体験できると考えている。
しかし、ビジネス書ならともかく、なぜ映像作品にまでコスパを求めるのか。なぜそこまでして効率を求めるのか。「話題作についていきたい」だけでは、動機としてはやや不足に思える。
著者が言う「話題作についていきたい」とはなにか。おそらくは、「話題作に…」ではなく「話題に…」なのではないだろうか。昭和ならば「流行に乗り遅れる」とでも言っただろう。言うまでもなく話題作とは、公開前からニュースになるような、まさに世の中の話題になるような作品のことに他ない。加えて、ここでいう世の中とは、現実世界のみならずSNSなどで展開しているコミューンのことである。そこで開陳すべき話題が、話題作を「観た観ない」に加えての論評に他無い。
本書で紹介している、若年層リサーチや就活イベントの専門家である博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所・森永真弓氏の言葉にヒントを得た著者は考察する。
彼らは、「観ておくべき重要作品を、リストにして教えてくれ」と言う。彼らは近道を探す。なぜなら、駄作を観ている時間は彼らにとって無駄だから。無駄な時間をすごすこと、つまり時間コスパが悪いことを、とても恐れているから。
彼らはこれを、「タイパが悪い」と形容する。
以前、私と同じく文章を生業とする若者と話したことがある。まだ20代前半の、いうなれば駆け出しライターの彼は、主にwebを活躍の場としていた。私自身には、居心地の悪い現場だが、彼曰く「webはいいですよ。取材の必要がないから効率が良い」と言うのだ。「いや、それでは……」と、思わず口をつきそうになった老婆心を押しとどめた。
そうなのだ。彼は、ニーズに応えているだけなのだから、それをとやかく言う必要はない。ただ私は、かつてwebなど無き紙と電波を媒体としていた頃に、諸先輩方から「とにかく綿密な取材を」と口うるさく躾けられた。そんな私がアンカー原稿を書くようになると、「これでお前も終わったな。自分で完成原稿を書くようになると、必要なことしか取材しなくなる。使われないかもしれない、無駄な取材こそがお前の財産なんだ」と、さらに手厳しく諭されたものだ。そうだ。私は、そんな無駄に終わった取材の中に、いつかと思わせる宝物をたくさん抱えていたように思う。
などと、今や、半ば使い物にならない、シーラカンス的ライターの独り言ではある。
そんなシーラカンス的ビジネスマンが跋扈していた時代。職場に現れた新入社員たちは、まずは電話対応や名刺の出し方を教えられたものだ。それらは、社会人として最低限わきまえておくべきことで、そこからでしか社会人のコミュニケーションは成立しないとされていた。では、昭和でも平成でもない令和において、必要とされているコミュニケーションの手段と方法とはいったい何だろう。言うまでもなくそれは、「正しいメールの出し方、返し方」だし、さらには「SNSの更新の仕方」に違いない。当然のように「既読の解釈」とか「絵文字の良し悪し」などもわきまえておくべき事項である。
そんな彼らの世界(現実世界+web)における話題(作)を、いかに主体的に語るかこそが彼らの世の中におけるマストコミュニケーションである以上、それらに対して、私たちとは次元の違う貪欲さを持っているのかもしれない。
視聴者のワガママ化、ある種の快適主義を「当然」と言うのは、前出の森永真弓氏だ。
「エンタメに対して“心が豊かになること”ではなく、“ストレスの解消”を求めれば、当然そうなります。心に余裕がない、完全にストレス過多なんですよ。特に若い世代は」
このことは、「スポーツを観戦する若者が減っている」という事実からも明らかだという。
森永氏は続けて語る。
「ストレス解消が目的なので、応援しているチームが勝つ場面しか見たくない。でも、スポーツは応援したからといって必ず勝つわけではありませんよね。言ってみれば、“リターンの博打度が高い”。だから、勝った試合のダイジェスト映像だけを見る。もしくは、特定のチームを応援せず、ファインプレーや点が入った“かっこよくて気持ちいい”シーンだけを見る」
もはやスポーツファンではない。スポーツユーザーだ。
なるほど、今や無限大に広がったとすら思わせる電脳空間上の選択肢を前に、具体的には何に追われているわけでもない、追われているとすれば、同じく電脳世界上のコミュニケーション(SNS等)を滞りなくこなし、かつ自分自身の快適を求める意識が、コスパならぬタイパまでをも追求する暮らしとなったのかもしれない。
それにしても、そんな彼らが抱えているストレスとは、いったいどのような種類のものなのだろう?
本書『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)は、コスパからタイパへと、さらに厳しく上位変換(?)した「世の中のルール」を、近頃流行りの映画やドラマのサブスクサービスに見られる傾向を切り取って考察するのみならず、そこに流れる現代社会の大きな歪みのようなものまで考えさせられる一冊だった。
若者だけでなく、電脳以前を回顧するシニア層にも必読の一冊である。
文/森健次
『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)
稲田豊史/著
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