『MGC(エムジーシー) マラソンサバイバル』著者新刊エッセイ 蓮見恭子
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洗面器の水から想像する世界

 

七月某日の午前五時、白み始めた外堀(そとぼり)通りを私は走っていた。靖国(やすくに)通りを上り、富久町(とみひさちよう)交差点からの急傾斜、外苑西(がいえんにし)通りのアップダウンを経て、新国立競技場で折り返す。フルマラソンの四分の一にも満たない距離なのに、神楽坂(かぐらざか)のホテルに戻った頃には全身汗塗(まみ)れだった。来年に迫った東京オリンピックは、暑さで大変なことになりそうだ。

 

駅伝小説を書くにあたり、ロードを走る感覚が知りたくて四年前にランニングを始めた。最初は五キロ走れたら十分のつもりが、昨年の秋にはフルマラソンデビューしていた。だが、長い距離を走る怖さを知ったのは、その一カ月前。河川敷で開催された大会の時だった。当日は台風が日本海を通過して、朝から雨というコンディション。ところが、私がスタートする午前十一時頃には一転して晴れ、気温は三十度まで上昇していた。走り出してすぐに、人が倒れているのに出くわす。路肩に寝かされている人、脚を痙攣(けいれん)させている人、座り込んで嘔吐(おうと)している人が、次々と視界に入っては消える。三時間前、先にスタートしたランナー達だ。しまいには救急車のサイレンまで聞こえてきた。怖れをなした私の脳内を「棄権」という言葉が過(よ)ぎるが、給水所では水を飲むだけでなく、柄杓(ひしゃく)で頭や首にかけてもらって何とか三十キロを完走した。水に救われたのである。

 

マラソン選手達の身体能力は半端なく高い。記録は勿論、背負っているものの重さや諸々の次元が違い過ぎて、その内面を理解するのは難しい。洗面器に注がれた水を触って大海を想像するような途方もないことだ。また、ほんの小さな思い付きや少ない情報から空想を広げて物語を作るのが小説家だとしたら、わざわざ走らずとも、たった一滴の水に触れただけで疾走感溢れるマラソン小説を書くのも可能だ。

 

それでも私は愚直(ぐちょく)に走るだろう。暑い中を走る日も、小説を書く時も、水はたくさんあるに越したことはないのだから。

 

『MGC(エムジーシー) マラソンサバイバル』
蓮見恭子/著

 

東京オリンピックのマラソン競技日本代表選考会であるMGCがもうすぐスタートする。12人の選手中、優勝候補は5人。はたして一発勝負の選考会で、オリンピック代表の座を手にするのは誰だ!? 疾走感溢れるエンタメスポーツ小説の傑作!

 

PROFILE

はすみ・きょうこ

大阪府堺市生まれ。大阪芸術大学美術学科卒。2010年『女騎手』で第30回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞し、デビュー。近著に『始まりの家』。

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