BW_machida
2022/05/05
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2022/05/05
『中国茶で、おとな時間』
伊藤悠美子/著
古い中国の伝説がある。神農という医療と農業を司る伝説上の皇帝がいた。神農は研究のために100種類もの植物を食べており、しばしば胃腸不良を起こしていたという。山の麓で鉄瓶の水を沸かしたまま眠りこんでしまったとき、開いたままの鉄瓶のお湯に茶葉が偶然落ちた。目を覚ました神農がそれを飲んだところ、数時間後には胃腸の調子が良くなったという。以来、お茶は薬として重宝されるようになった。言い伝えを信じるなら、お茶の起源は「偶然の産物」だったということになる。
皇帝をはじめ文人、詩人そして一般庶民にも愛されてきたお茶には、長い歴史のなかで時代の流れとともに消えてしまったものもおおい。「どんな立場の人にとってもお茶を飲む時間は、同じ時間なのです」中国茶専門店を経営する著者はそう語る。これまでに飲んだ茶葉は200種類を超えるとか。しかし、中国茶には1000を超える種類があると読んで、あまりの数の多さに驚いてしまった。
本書は中国銘茶の紹介、美味しいお茶の淹れ方、中国茶と食の楽しみ方など、広大な中国茶の世界を紹介する内容となっている。だがこれは、中国茶のほんの入り口でしかない。ずっと気になっていた茶杯が小さい理由も、本書を読んで納得した。
「中国茶はもともと、主に高貴な人々や文人たちの間で愛飲されていましたが、当初はお茶碗のサイズで飲んでいました。それが次第に文人たちが野外で詩作や絵画を描くために、持ち運びしやすい小さいサイズになったと言われています。」
やがて「客人に常に温かいお茶を飲んでいただく」という思想が加わったことで、現在の茶杯が定着する。小さい茶杯のほうが香りや味を感じやすいという理由もある。茶杯に描かれた動物や植物といった柄にも、それぞれ意味があった。たとえば「金魚」は富と財運の象徴、「蝶」は愛情や喜びを表している。「蝙蝠」は、福があるという意味の「遍福」と同じ発音であることから福をもたらすと考えられてきた。茎や葉がからみ合う「唐草」は、蔓を伸ばす生命力の強さから繁栄と長寿の象徴とされているそうだ。
「茶神」なる物があることも、本書を読んで初めて知った。茶盆のうえに置いて楽しむ茶神は、中国古代より福をもたらすモチーフとして親しまれてきた小さなマスコットだ。一煎目のお茶を捧げる意味を込めてお湯をかけたり、家の外に向けて財運のおまじないにする人もいるとか。ねずみや蛙、豚といった生き物が彫られており、動物ごとに意味がちがう。ねずみや豚は子孫繁栄、蛙や魚などの水の生き物は家に金運を呼びこむと信じられている。
かつてお茶を習慣的に飲んでいた貴族や文人たちは、お茶の香りや味覚、泡立ちなどから産地を推測し勝敗を競う「闘茶」という遊芸を楽しんだという。中国の「茶藝」という言葉には書、詩など茶とその周辺の芸術という意味がある。中国人にとってお茶がいかに身近な存在だったかよくわかる。お茶は単に喉を潤すための飲み物や嗜好品ではなく、精神的なものでもあったのだ。
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