2018/11/28
南美希子 TVコメンテーター・司会者・エッセイスト
『鎌倉の家』河出書房新社
甘糟りり子/著
最近30代くらいの若い人たちからバブルの頃のことをしばしば聞かれる。
「お札をヒラヒラさせてタクシーを止めていたって本当ですか?」
「ディスコのお立ち台で踊るのって勇気がいりませんでしたか?」
などなど。
バブルが始まったとされる1986年は私が30歳の時で、この年に会社を独立してフリーになった。サラリーマン時代と比べて身入りが桁違いに良くなった事が拍車をかけ、私はバブル期を余すことなく謳歌した。ちょうど海外のブランドブーム熱が加速した頃でもあり、数十万のヴェルサーチやアルマーニのスーツを値段も見ずに片っ端から買い漁っていた。
やがてバブルが終焉を迎える頃に結婚・出産を経験し、仕事をこなしながら子育てに奔走する日々が始まった。と同時に私の購買欲もグルメ欲も、海外旅行欲も、当然ながら恋愛欲もあの頃のパッションの源だったぎらぎらした欲望の数々がまるで憑き物が落ちるように一挙に削げ落ちていった。
丁度その頃だ。ある男性ファッション誌の取材を受けることになり、旧知の編集者が伴ってきたライターが甘糟りり子さんだった。美人で尖がっていて有能。私が知るライターの範疇に収まらない人だった。強烈な第一印象とインパクトのある名前が相俟って甘糟さんのことはずっと心の中に留まっていた。
その後、ファッションやグルメ、車など、自身の経験に基づく情報を盛り込んだ読み物で彼女は人気作家としての地位を確立した。その後も数々のヒット作を放ち、今日に至っている。
バブル期に私より10歳近く若かった彼女もまたその洗礼を受けたクチだ。あの頃についてしたためた彼女の著作に触れた事があるが、緻密な描写とその鋭い分析眼、時代を斬る鮮やかな切り口。さらには私にとって門外漢の高級車の世界。同じバブル経験者でありながら、とても甘糟さんには歯が立たないなあと舌を巻いたものである。
最近、甘糟さんの話題の新作『鎌倉の家』をふと手に取ってみて私は再び深く唸った。やはり彼女は只者ではなかった。なぜならば、バブルの真っただ中にいた者はあの感覚を知る者にしか分からない残像を背負って生きている。あの強烈な体験への渇望の残り火を体の中にくゆらしながら生きる定めを背負っていると言ってもいい。よって、バブル後の生き方が大命題のようなところがあるのだ。私はと言えば嵐のような子育てに追われ、バブル後の上質な暮らしについて考察する間もなく今日までずるずるときてしまった感がある。子育ても一段落した今、あわよくばあの頃のような買い物や旅行に狂奔してみたいという思いを巡らせるのが関の山なのである。
短い33編のエッセイからなるこの『鎌倉の家』の1章目「献立ノート」を読んだ瞬間から、バブルにとって変わる上質で贅沢な暮らしとはこれだったのだと、出会いがしらに強烈パンチを食らったような衝撃すら覚えた。80歳を過ぎたご母堂から彼女が譲られたのは4冊のノート。そこには、招いた客人の顔ぶれ・献立・活けた花・使った器などが詳細に記されている。しかも、もてなし料理は鎌倉の邸宅の庭に自生する野草の料理なのだ。タンポポとカブのサラダやツクシの卵とじ。メインのご馳走も鎌倉近くの馴染みの鮮魚店で仕入れた季節の魚やシカの肉、熊の肉といった一捻りもふたひねりもある献立だ。これらの料理を古伊万里や漆器など、お母様の代から買い集められた趣味のいい器で饗する。
現在、80歳をこえた母上に代わって同じように客をもてなす生活を送っているのは彼女自身なのだ。りり子さんが3歳の時移り住んだという築250年の移設建築である合掌作りの鎌倉の家。そこは四季折々の表情をみせる草花が咲き誇り、よく手入れされた趣味のいい調度品や器が置かれている。家じゅうに飾られた四季の花々。そこを訪れる名だたる文化人や女優たち。さらには、高い天井の居間でワーグナーを聴こうとした父上がスピーカーを配する最適な位置を巡って来訪者の音楽評論家と額を寄せ合う。都心の豪華タワーマンションの暮らしとは全く違う価値観の、しかしながら庶民には手の届かないような暮らしぶりが余すことなく描かれている。
歴史的にも、文化的にも、資産的にも上質で重厚な暮らしが縦糸として描かれているとしたら、横糸として綴られているのは、幼い頃から近年に至るまでの家族の絆だ。鎌倉付近の行きつけの店に家族で食事に通った想い出、稀有なお宝ワインを母がうっかり来訪の友人たちと開けてしまった話、そして父の病気と死。歳を重ねたからこそ込み上げてくる両親への感謝の念が行間から感じられ素直に共感できる。この横糸が見事に絡み合っていることにより、『鎌倉の家』はほろ苦く心に残る読後感を与えてくれる。
―今月のつぶやきー
仕事で釧路に行ってきました。和商市場の勝手丼。まず酢飯を買って、次に魚屋さんで好きなネタをのせてもらいます。50種類くらいの切り身があってもう迷いまくり(笑)また行きたいなあ。
『鎌倉の家』河出書房新社
甘糟りり子/著