2019/06/28
大平一枝 文筆家
『ずばり東京』光文社
開高健/著
寿屋(現サントリー)宣伝部の社員だった開高健は28歳で芥川賞を受賞。たちまち、「壁にぶつかり、鬱性を手伝って、ひどいスランプに陥ちこんだ」(原文ママ 本書「前白」より)。
朝からウイスキーをトリスなら1日に2本、角なら1本(!)空けるような毎日に、舞い込んだ依頼が『週刊朝日』の「日本人の遊び場」という短いルポである。
それが『ずばり東京』という1年間の連載に引き継がれた。昭和38年東京オリンピック前年のことだ。少年院から深夜喫茶、横田基地、オリンピック施設建設作業員の飯場と、あちこちを歩き回る。
独白体、会話体、谷崎ふう、小学生の作文ふうなど、彼のルポには珍しい様々な文体が混じり合う本書は、私のように鼻血がでるほど開高文学が好きな者には、戸惑うことのほうが多い。
ただ、あちこちの田畑や長屋をつぶしまくり、道路を堀りまくっては、作りまくるオリンピック前夜のバッタバタな感じが、一話ごとに文体がガラリと変わる本書の調子と、ひどくマッチしているのはたしかだ。
55年を経て、再びこの街はオリンピックという狂騒にも似た祭典を体験しようとしている。
いまと55年前と。
“東京オリンピック前年”、“昭和と令和”という時間軸で比較しながら読むと、じつにおもしろいのだこれが。
象徴的なテーマを紹介しよう。
三宅坂に3千人の飯場集落が
1963年、千代田区の皇居堀端には、オリンピックの高速道路を作るための労働者の集落があった。複数の建設会社が雇った労働者3千人が住むバラックである。8時から19時頃まで働き、休日は月に2日。地方の農家から来た出稼ぎ者が大半で、農閑期に東京で、農繁期は地元で朝から晩まで働く。開高はそこまでして働かねば食べていけない地方の農業を憂うと同時に、出稼ぎが多い地域の世俗的価値観の生々しいありようを、大分から来た男の言葉から拾いあげる。
田舎では人柄や職種で人格を判断してくれない。どんな山奥へ行っても、どれだけ金を稼いできていい格好をしているかということだけで、こちらを尊敬したり、軽蔑したりする。早い話、田舎をでたときとおなじ服で田舎へ帰ったら、あぜ道で出会っても誰もあいさつしてくれない。
だから、田舎へ帰る1ヶ月前になると皆、「いい服」を買うために生活を切り詰め、節約しだす。武道館も、駒沢のスタジアムも、国立競技場も、九州や東北などから来た農民たちがそうやって、窮屈に生きながら、汗を流して作り上げたものなのだ。そのときの国立競技場はもうないけれど。
少年犯罪の変化はこの頃から
多摩少年院で、開高は興味深い二つの気づきを得ている。
ひとつは、この頃から、衝動的に犯罪を起こす少年らが増え、かつてのスリのように「修練や技術や思考の計算を必要とする非行」がほぼいなくなったという事実。「ただの盗み」の代わりに、強姦、脅迫、殺人、傷害など“粗暴犯”がジリジリと増える一方だった。
ただの盗みも犯罪には違いないが、非行少年らが「修練」を積んで食べていくためにスリをする時代から、感情にまかせて罪を犯す時代に、少年犯罪が変化したと読み取れる。
この少年院では、住宅地は世田谷区、工業地では大田区、下町では江東区の3つが多い。
蒲田や江東方面の非行少年は貧しさや職場の不満などからゆがんでしまったというのが多く、世田谷方面の場合は家庭が物質的にゆたかであっても両親が不和であるとか、両親の素行が乱れているとかエスカレーター式に高校から大学へすべりこむはずであったところが成績不良ではみだしてしまったとかいったことでグレるのが多いとのことであった。
(中略)
以前は世界各国どこでも少年犯罪は貧困の生み出すメタンガスであったのだが、次第に、圧倒的に、そうでなくなりつつあって、新しい定義と分析に苦しむという。
川崎のスクールバス死傷事件の犯人や、元農林水産事務次官が殺害した息子の年齢は、開高が多摩で見た少年らより10余年若いが、私は、中高年引きこもり61万人超というニュースとともに、それらの事件を思い出した。データにはないが、うまく(!)グレることもできず、家にこもったままの少年は、この頃から生じ始めたと考えるのが自然だ。
どれだけ怠けて暮らせるかで文化度がわかる
老いも若きも、役人も日雇いも、日本人は本当によく働く。開高は毎週歩きながら、そのことに、だんだん辟易としてくる。
そんな疲れ気味の彼が、気持ちいいほどバッサリ日本を斬る一説を紹介しよう。
身を粉にしてはたらくことがたのしいのだというマゾヒスティックな“快楽説”に私は賛成しないのである。どれだけのんびり怠けられるかということで一国の文化の文明の高低が知れるというのが私の一つの感想である。この点では日本は“先進国”でもなければ“中進国”でもなくハッキリと、“後進国”だと私は思う。
連載を終えオリンピックを見届けた年、開高は、新聞社の臨時特派員としてベトナム戦争に従軍する。あろうことか、彼の地で反政府軍に乱射され、200人中19人という生還者の一人になった。
4年後、従軍体験をもとにした『輝ける闇』で毎日出版文化賞を受賞。戦争三部作を執筆するが、やがて、「流血の闘争現場を報道することにも、観察することにもくたびれはじめ」たと、本書「後白」に率直に綴っている。
そして彼は、釣りや酒や食の世界を精力的に綴ることにのめり込んでいくのだ。
没後14年目、私は『開高健はいた。』(平凡社)の編集ライターとして、晩年の自宅書斎を訪ねた。
窓からは緑の木立しか見えない、こぢんまりとした静謐な空間だった。机には各国の灰皿が(パイプを60本所有する愛煙家だった)、壁には釣り竿や拓本が飾られている。
オリンピックの前年、毎週1年間、東京でがむしゃらに働く日本人を独特の視座で観察しながら彼自身もまた、のんびり怠ける生活を夢見つつ、この遊び心あふれる書斎で、版元からのあまたのオーダーをこなしていたんだろう。
いまなお続くこの国の働きすぎ病は、なんとか改革で完治するのかわからないが、ちょっと疲れている人にこそ読んでいただきたい。55年も前から、のんびり怠けようよと、昭和の才人が語りかけてくれるから──。
『ずばり東京』光文社
開高健/著