2020/01/15
長江貴士 元書店員
『正義の教室』ダイヤモンド社
飲茶/著
子どもの頃はよく、「正義の味方」に憧れるものだろう。「正義」というものがどんなものかきちんと理解できていなくても、子どもながらになんとなくイメージは出来るだろうし、そのイメージのまま深く考えずに大人になる人が多いだろう。
大人になってから「正義」について考える機会は、そうそうないかもしれない。自分なりに、「生き方の指針」みたいなものはある程度固まってくるし、それがある種の「正義」の役回りを果たすはずだが、「生き方の指針」が誰かと対立するような場面にならないとあまり意識されないものだし、そういう場面であっても、自分の考えを「正義」と認識する機会はあまりないだろうと思う。
そういう意味で本書は、日常的に意識しない事柄について考えるきっかけとなる一冊だと思う。
「正義」と言われると、あまり日常的な感じがしないが、そこまで難しい話ではない。自分が何か行動する際に、どういう判断基準で決断を下しているか、その基準を「正義」と呼ぶのだと考えればいい。
本書では、世の中にある「正義(判断基準)」は、3種類に分けることが出来る、と書かれている。「功利主義」「自由主義」「直観主義」である。本書は、これら3つの考え方について書かれている本だ。
難しそうに思えるかもしれないが、本書の設定を説明すればちょっと印象は変わるだろう。
本書は、「最上千幸」「ミユウ(自由)」「徳川倫理」という3人の生徒会の女子高生がそれぞれ「功利主義」「自由主義」「直観主義」の立場を取り、その3人と、生徒会長である主人公「山下正義(まさよし)」が「正義」について語るという、物語形式で進んでいくのだ。
3人の女子高生がそれぞれどうしてそういう立場になったのかという過去の出来事がしっかり描かれ、また彼らが通う私立高校の「とある特殊な設定」も物語全体に大きな影響を与えていく。
学校の問題について4人が議論しつつ、風祭封悟という倫理の教師の授業を受けながら「正義とは何か」について物語が展開していくので非常に読みやすいし、ラストの展開は、物語全体を包括しつつ、「たしかにそれしかない!」という納得感を与える見事な着地になっている。「正義」の議論そのものが面白いのは当然だが、物語としても非常に魅力的だ。
それでは、物語に関するネタバレは避けながら、本書で「正義」の議論がどう展開していくのか書いてみよう。
「功利主義」というのは、「最大多数の幸福」という言葉で知られるように、より多くの人が幸せになることを目指す立場である。強者も弱者もなるべくみんなが幸福になるように、という発想で、基本的には「幸福度」という指標が最大値を取るような決断・行動を「正義」と捉える考え方である。金持ちから税金を多く取り貧しい人に再分配する考え方は、この「功利主義」である。
納得感のある主張に思えるが、やはり最大の問題は「幸福度」をどう判定するかという点にある。例えば、「結婚している人の方が幸福度は高い」と一方的に決められたら、反発したくなる人は多いのではないだろうか。確かに、結婚は良いかもしれないが、しかし結婚していないことが悪いわけではないだろう。
このように、人それぞれ価値観は様々なので、「幸せである」という定義をどう設定し「幸福度」を定めるのか、という点が問題である。また「功利主義」を実現するためには「お金の再分配」などの「権力による強権・抑圧」が必要でもあるし、また、「お金の再分配はむしろ不平等なのではないか」という考え方もあるだろう。
次は「自由主義」についてだが、「自由主義」というのは非常に捉えるのが難しいと本書では書かれている。理由は、「自由主義」にはあらゆる考え方が混在しているからである。本書では、それら混在した考え方を一刀両断に整理する、シンプルな分類が提示される。
それが「弱い自由主義」と「強い自由主義」である。
「弱い自由主義」というのは、「自由よりも幸福が大事」という考え方である。つまり、「弱い自由主義」というのは、「幸福」を実現する手段として「自由」を捉えている、ということだ。で、言ってしまえばこれは「功利主義」と変わらない。
よって本書では、「弱い自由主義」=「功利主義」と考えて、議論の対象から外している。
もう一方の「強い自由主義」は、「幸福よりも自由が大事」という考え方である。つまり、「自由を守ることは、結果にかかわらず、正義であり、自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である」という考え方だ。
例えば麻薬の使用は、自分を不幸にするという悪い結果を導くが、しかし「強い自由主義」では、たとえそうであっても麻薬を使用する自由はある、と考えるのだ。自らその選択をしているのだから、たとえ悪い結果が想定されようとも、その自由を保証するべきだというわけである。
この「自由主義」も、様々に問題点が指摘されるが、大きく括ると、「道徳的に良くないことを止められない」という風に表現できる。前述した麻薬のように、「道徳的に良くない」と感じられる事柄が世の中にはたくさんある。
「強い自由主義」の人たちは、そういう場合でも「勝手にすれば」という立場を取るが、やはりそういう場合は止めてあげるべきではないか、という考え方が反論として出てくる。
最後に「直観主義」だが、これは、「理屈を超えたところに『正義』というものは存在し、人間は誰でも良心に従ってその『正義』が理解できる」という考え方だ。「人を殺してはいけない」という主張に対して、「功利主義」は「全体の幸福度が下がるから」と答え、「自由主義」は「自由は他人に迷惑をかけない範囲で認められるのだから、他人に迷惑をかけてはいけない」と答えるが、「直観主義」は「人を殺してはいけないのは当然です」と答える、ということである。「正義」というのは理屈の外側にあるものであって、理屈で説明できるものではないのだ、という立場である。
「直観主義」の最大の問題は、「理屈の外側に本当に『正義』があるのか?」ということに尽きる。これについて本書では、アメリカのロールズという哲学者が考えた「無知のヴェール」という思考実験を紹介している。この思考実験は非常に面白かったが、ここでは割愛しよう。
この「直観主義」の問題点から本書では、過去2500年の哲学史の話が展開されるのだが、これが非常に面白かった。
要するに、これまで哲学というのは、「善や正義が『枠の外側』にあるか『枠の内側』にあるかという論争」をし続けてきたのだ、ということが書かれていく。様々な時代に、様々な哲学的な対立があったが、それらは大きな視点で見るとすべて、「枠の外側」VS「枠の内側」の論争であると捉えることが出来るのだ。
しかし、ある時「神殺しのニーチェ」がその論争を終わらせた。彼は、「『枠の外側』にあるもののことなんか考えてるから人間はロクデナシになったんだ!」というような趣旨の主張をしたのだ。
そしてこのニーチェ以後、「善や正義が『枠の外側』にある」というタイプの哲学的主張は出てきていない、という。ニーチェ以後の哲学である「構造主義」「ポスト構造主義」などについても触れられるが、実はこの話も物語全体と関わっていて、衝撃のラストに繋がる流れを生み出しているから見事である。
本書で僕が最も好きな場面は、主人公が3人の女子高生の内の1人に熱弁を振るう場面である。詳述はしないが、本書を読みながらずっと感じていた「『正義』について議論することへの違和感」みたいなものが、その場面における主人公の熱い主張によって輪郭がはっきりしてきて、「山下正義、その通りだ!」と賛同したくなるような胸熱の展開となる。
この考え方は、「正義」に関する判断をしなければならない場面に陥った時に、きっと思い出すだろうと思う。
『正義の教室』ダイヤモンド社
飲茶/著