2020/12/30
馬場紀衣 文筆家・ライター
『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』
光文社 著/橋本陽介
しかつめらしい文法論などではない。気鋭の言語学者によるまったく新しい「日本語文法」の本である。いや、文法なんていかにも面白くなさそうで、かたい話もない。「文とは何か」を考えることで人とは何か、思考とは何かなど、めくるめく言葉の世界へ読者を誘うのである。
いまのところ言葉を使うのは人間だけのようだが、人間言語は脳の中に「実在」する、らしい。それは文化や人種にかかわらず、皆そうである。そして言語と思考はつながっている、らしい。となると気になるのは、言語が思考を決定しているのかということだ。もし、言語が思考に影響を与えているとするなら、日本語で考える人は日本語に縛られた思考になったりするのだろうか、と著者は読者に問いかける。
たしかにアメリカ人と日本人とではものの考えかたが違うような気がするし、フランス人と日本人とでは、なんとなく世界の見えかたも違うような気がする。著者によれば、「使用する言語によって思考が影響をうけるか」どうかは、これまで幾度も言語学的な実験が行われてきたらしい。たとえば、日本人なら一般的に茶色と答えるだろう柴犬の色は、中国語だと黄色になる。封筒の色も、日本では茶色だがフランス語では黄色になるという。
空間把握の仕方にも言語の違いは現れている。日本人はたいてい「前後左右」で空間を把握するけれど「前後左右」ではなく「東西南北」で空間把握をする文化圏の人もいる。とはいえ、色にしても空間把握の仕方にしても個人的なズレや無意識レベルでの環境に対する適応などの要因を考えると、どちらも言語が思考を決定していると考えるまでにはならない。
それでも、「直感的には言語が思考を縛っているように感じられる」のは、思考を「言語以前の世界認識のような」意味として捉えているからだと、著者は指摘する。
「言葉を通じて意識化されるカテゴリーや、意識化する慣習は、言語によって異なる。そういう意味では、個別の言語は意識的思考に影響を及ぼしているのではないか。慣習の問題なので、言語が完全に決めてしまうわけではないが、別の習慣を知らなければそれを当然のものとみなすだろう」
言語が思考を規定しているように感じられる理由に、著者は翻訳の問題も挙げている。外国語を勉強していると、日本語との表現の違いに戸惑うことがある。こんなとき、日本語的な考え方をしているから適切な外国語で表現できないのだ、と先生に指摘されたことはないだろうか。でも、これは「思考というよりも表現の仕方」が決められているにすぎないのだという。
日本語の書き手は日本語の表現の規範から逃れられないし、外国語もまたそう。著者が指摘するように、文法は翻訳されてしまうと、もともとの言語で読んだり聞いたりした時と何か違う感じがする。しかし「表現方法が言語によって異なっても、表現者の『思考』に大差はないかもしれない」のだ。
「個別の言語は表現を縛る」らしいということは分かったが、それではいったい文とは何なのか。日本語文法を紐解く著者の言語論はまだまだ続く。人間の言葉ってふしぎだ。
『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』
光文社 著/橋本陽介