新規参入なくしてダイナミズムなし 『小さな出版社のつくり方』

吉村博光 HONZレビュアー

小さな出版社のつくり方』猿江商會
永江朗/著

 

 

近ごろ、「初心忘るべからず」という言葉が、寝る前にズーンと頭にのしかかってくるようになった。3月に会社を辞めて以来、ずっと私は「これまでと違うことをしたい」と思い続けてきた。例えば、会社勤めではなく会社経営。例えば、同じ業界内での転社ではなく転職。基本的には、自分にとって新しくて面白いことをしようと思っていた。

 

とにかく未知の世界というのは、ワクワクするものだ。だから、私は本も好きなのである。しかし知り合いにそれを話すと一定の理解を示すものの、これまで出版業界で築き上げてきた経験を捨てるのは「もったいない」といわれることが多かった。言いかえると、(今のところ)多くの人が私に期待しているのは、業界内での知識であり経験のようなのだ。

 

そんなわけで「初心忘るべからず」の初心について考えるようになった。これから私がしようとしていることは、初心に反することなのだろうか。少なくとも、直近の私が仕事に込めていた思いは、25年間の時間を経て徐々に醸成されてきたものだ。だからそれは、初心とは似て非なるものだ。そう考えたときに、真っ先に思い浮かんだ光景がある。

 

あれは就職活動中、直接小さな出版社の営業部に、一冊の本を買いに行った時のことだ。残念ながら出版社名は忘れたが、場所も、小雨模様の天気も、2割引きで買えた嬉しさとともに鮮明に覚えている。マガジンハウスの創業者二人についての本だった。私は出版社でアルバイトをしていたので、現場の空気を思い浮かべながら面白く読んだ。

 

それは同時に「出版社を作ること」が、私の「将来の夢」になった瞬間でもあった。ここ数か月、眠れない夜にはそのことを考えるようになった。布団のなかで同じような本が出てないか探して買い求めたのが、本日紹介する『小さな出版社のつくり方』という本である。書店愛が詰まった本はたくさん出ているし、私もそれなりに読んできた。

 

でもなぜだろう、若き日にそんな夢を描いた割には、出版社愛の詰まった本を読んだ記憶が少ない。それはもしかしたら、出版取次で「出版社を作ること」の厳しい現実を目の当たりにして、興味を持つことすら蓋をしてきたからかもしれない。私ごときが、という思いだ。でもどうやら、その蓋には茶筒くらいの隙間が空いていたようだ。

 

会社を辞めて10ヶ月経ってからではあるが、こうしてその夢を思い出しているのだから。本書には「新規出版社の側からみた、出版社を作るということ」について、12の事例が紹介されている。これを読めば、タイトルにあるような「小さな出版社(悪い意味ではない)」を作るには、どうやら以前よりも環境が整ってきていることがわかる。

 

本書の刊行は2016年。そこには12とおりの夢があって、感動的である。さまざまな困難に立ち向かいながらも道を見出し、それぞれのビジネスモデルを作って、本という素敵な創造物を生み出している。右肩下がりの時代に変革を迫られ続けている出版業界は、その後も柔軟に変化しており出版社を作るハードルは下がっているように思う。

 

ただネットで検索すれば、本書に掲載された出版社の現在の活動状況はわかる。創業か守成か。経営を軌道に乗せて永続させる難易度は、さらに高まっているのではないだろうか。創業時にビジネスモデルを決める際には、やはりある程度将来的な形を視野に入れておく必要があるということだろう。

 

マガジンハウスのように新しい文化の担い手になる出版社を作ることが、若き日の私の夢だった。でもいま私は心の底から爺になっていて、人を雇いたくはない。規模を大きくしたくはないのだ。「出版社は机一つでできる」という本書の言葉に一縷の期待を抱きつつ、初心と爺の心の交点を探したい。私ごときでも、探すだけなら自由だろう。

 

『小さな出版社のつくり方』猿江商會
永江朗/著

この記事を書いた人

吉村博光

-yoshimura-hiromitsu-

HONZレビュアー

出版取次トーハン就職後、海外事業部勤務。オンライン書店e-honの立ち上げに参加。その後、ほんをうえるプロジェクトの初期メンバーとなり、本屋さんの仕掛け販売や「AI書店員ミームさん」などの販促活動を企画した。一方でWeb書評やテレビ出演などで、多くの本を紹介してきた。50歳を機に退職し今は無職。2児の父で介護中。趣味は競馬と読書。そんな日常と地続きの本をご紹介していきたい。


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