2021/03/19
長江貴士 元書店員
『Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男』文藝春秋
佐々木健一/著
高所恐怖症などでなければ、現代においてはもう、「飛行機に乗ってどこかに行くこと」は恐怖を感じるような経験ではなくなったと言っていいだろう。多くの人が気軽に飛行機に乗り、飛行機がなければなかなか行けなかっただろう場所へと簡単に赴いていく。数字も、その安心感を後押しする。本書執筆時点でのアメリカのデータだが、アメリカで飛行機に乗って死亡事故に遭遇する確率は、たったの0.0009%だという。同じくアメリカ国内で自動車の死亡事故に遭遇する確率は0.03%なので、車よりも圧倒的に安全な乗り物だと言っていいだろう。飛行機の事故は、まったく起こらないわけではないが、ほとんど起こらなくなった。
しかし、たった30年前はそうではなかった。飛行機に乗ることは常に、死を覚悟しなければならないものだった。大げさな表現ではない。当時は、18ヶ月に1度という割合で、100名以上の乗客を巻き込む航空機事故が世界のどこかで発生していたのだ。飛行機が突然上空から地面へと叩きつけられるように急降下し、多くの犠牲者を出していた。
この状況を変えたのが、本書の主人公、藤田哲也である。世界中で「Mr.トルネード」として称賛されている、気象学の研究者である。
本書を読めば分かるが、気象や航空に携わる人間は皆、藤田のことを絶賛する。彼がいなければ、空は危険なままだった。彼は、飛行機事故で命を失っていたかもしれない何百人もの命を救ったとして、その功績が高く評価されている。
もちろん、藤田一人の奮闘で世界の空が安全になったわけではない。様々な人間の協力があって実現したものだ。しかしそれでも藤田がここまで称賛されるのには訳がある。それは、藤田が激烈な反対に遭いながらも自説を曲げずに主張し続けたという事実にある。
藤田は、「ダウンバースト」と呼ばれる現象を最初に“予測”した人物である。この「ダウンバースト」が、奇妙な墜落事故の原因だったわけだが、重要なのは、藤田は「ダウンバースト」を“発見”したのではなく“予測”したのだ。つまり、藤田が「ダウンバースト」を提唱した時点では誰も、「ダウンバースト」のような現象を観測したことがなかったのだ。
藤田は、航空機事故の調査を徹底的に行った結果、「パイロットの証言や事故現場の状況から、事故当時こういう現象が起こっていたはずだ」と仮説を立て、その現象に「ダウンバースト」という名前を付けたのだ。
しかしこの発表は、猛烈な反対を引き起こす。藤田はなんと、「嘘つき」とか「ホラを吹いているなどと言われたという。これが無名の研究者であれば、まだ理解できるかもしれない。しかし藤田は、「ダウンバースト」を提唱した時点で、アメリカで確固たる地位を築いたスーパー研究者として広く知られる存在だった。そんな藤田の主張であったにも関わらず、当時の気象学の常識からかけ離れているとしか思えなかった「ダウンバースト」を、多くの科学者は受け入れることが出来なかったのだ。しかし藤田は、その後も研究を重ね、ついに彼が予測した通りの現象を観測することになる。そしてこの発見が、我々が安全に飛行機に乗れる空が整備されるきっかけになったのだ。
藤田は直感が並外れて優れていたようで、僅かな観測データからでもその気象現象を頭の中でイメージし、図示出来たそうだ。まったく同じデータを目にしても、藤田と他の研究者では見えるものが全然違う。多くの研究者が、藤田のこの能力を「驚異」だと語っている。
さらに、「ダウンバースト」現象の発見には、実は長崎の原爆の衝撃波の調査が関係している。原爆投下直後に長崎入りした藤田は、当時の機器だけを使用し、爆破地点を導き出した。それは、後にスーパーコンピューターで計算したものと同じだったという。この時の経験が実は、「ダウンバースト」現象発見の遠因にある。
これほどの功績を挙げた日本人であるのに、日本人のほとんどは彼のことを知らない(僕も、本書を読むまで知らなかった)。その主な理由の一つは、藤田がアメリカで研究をしていたことが挙げられるが、そもそも何故藤田はアメリカに行ったのだろうか?その経緯が実に面白い。
藤田は気象学で名を成した人物だが、気象学を専門に学んだことは一度もない。すべて独学だった。彼はある大学(当時の名称は専門学校だが)で助教授になった際、近くの気象台に通い観測データをもらっていた。そしてそのデータだけから、専門家も唸るような見事な分析を導き出したという。当時既に、データを見て全体像を掴む能力に長けていたのだろう。そんな理由から藤田は、気象庁の職員でないにも関わらず、気象庁の職員と同等に扱おうという異例の待遇を受けることとなる。
そんな縁で、藤田はまた別の観測所に通うことになったのだが、その観測所の隣には米軍のレーダー基地があった。ある時友人から、「レーダー基地のゴミ箱に、雷雲の研究論文が捨ててあったぞ」と言われ、その論文を受け取った。実は藤田、雷雲に関するある論文を書いていたのだが、それは日本ではまったく評価されなかった。藤田は独自の発見だと思っていたのだが、それは気象庁の人間なら誰でも知っていることだったからだ。しかし、ゴミ箱にあった英語の論文が雷雲のものだったことから、藤田は自分の論文を英訳し、「ゴミ箱の論文」の著者に送ることにした。
その論文を受け取った教授は驚愕することになる。というのも、アメリカでは雷雲に関するその研究に、2年間で200万ドル(当時のレートで7億2000万円)も掛けていたからだ。藤田がその発見に至るのに100ドル程度しか使わなかったことを知った教授は、「すぐさまアメリカに来てくれ」という打診をする。こうして彼はアメリカで研究することになったのだ。
しかし不思議ではないだろうか?当時の日本にはまだ、英語で打てるタイプライターはごく僅かだった。何故藤田は、英語の論文を執筆出来たのか?そこには、苦学生だった藤田が生活のために行っていた家庭教師の仕事が関係している。というような具合に、藤田の人生には、まるで「導かれている」とでも言いたくなるような展開がたくさんある。彼が行った研究そのものも興味深いが、「藤田哲也」という研究者の人生だけ見ても、なんだかワクワクさせられてしまう。
飛行機を自動車以上に安全な乗り物にしてくれた最大の功労者の人生を、是非とも読んでみてほしい。
『Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男』文藝春秋
佐々木健一/著