2021/08/17
坂上友紀 本は人生のおやつです!! 店主
『愛猿記』中央公論新社
子母澤寛/著
「子母澤寛」と言えば、新選組の名を広く世に知らしめた昭和の時代小説作家です。けれども『愛猿記』には新選組の「し」の字も出てこない。猿のことしか出てこない。猿、猿、猿の話。加えて犬や烏や人について書かれた随筆です。
とにかく物凄い猛猿だという。如何にも、私の庭へ運び込まれたのを見たらびっくりした。上が林檎箱位、その中に蜜柑箱位のが入って二重になっていて、これに金網を張り、上箱は鉄棒の格子。そして内には赤ン坊位の羆色をした猿が、首輪の鎖をやっと四、五寸も延ばして小さな方の箱底へ殆んど打ちつけられたように、身動きどころか顔も碌に動かせないことにしてある。猿は上目遣いの恰好でこっちを見ていた。
飼われていた先々で散々暴れては物を壊し、人を咬みして誰の手にも負えなかった殺処分寸前の「猛猿」が、知り合いの獣医によってなぜか動物に好かれる子母澤寛のところに、最後の頼みの綱とばかりに運ばれてくるところから始まります。
しかし、厳重な檻に入れられた尋常ならざる暴れ猿が、ただ一目見るや否や、実にあっさりと子母澤寛に懐いているではないかーい!
ここでちょっと口絵の写真(頭上に猿を乗っけた子母澤寛。撮影は、無駄に!?豪華に土門拳!)を見てみれば、父と子に見えなくもない。
さておき、誰にも懐かなかった猛猿が自分のみに愛嬌を振り撒けば、それはもちろん可愛くない訳がない。「三ちゃん」と名付けられたこの猿は、毎日一緒に子母澤寛と風呂にも入れば、一緒の寝床にだって寝る。まるで我が子同然に愛され共に暮らすようになるのですが、恐ろしきは子母澤寛の躾けです。犬や小鳥ならいざ知らず、猿の飼い方はわからない。そこで猿飼いの名人のところに出かけて聞いたらば、「一番先に、どうしたってこ奴には叶わねえ、この親方に咬みついたって駄目だという事を思い知らせて置かなくちゃあならねえ」と、急所の首ねっこに猿が降参するまで咬みつくようにと教えられる。で、本当にするのが子母澤寛の凄まじさですが、猿の首ねっこは、なんかすごい獣臭がする模様。察してあまりある……!
閑話休題、この時、猿と子母澤寛とを愛情の絆によってがっちりと結びつけるような、ミラクルな出来事が起こったのでした。
咬み終えた時、猿はきっとこう反撃するだろう。こうきたらこう、ああきたらこう、とさまざま対処法を考えていた子母澤寛ですが、な、なんと! 首ねっこを咬まれていた三ちゃんは、「ふり向くと、ウオウオとひどく優しい調子で語り乍ら、ぴったり私に抱きついたものである」。「天は私に最上の喜びを与えた」。おぉ……!
この時から、初代に次ぎ二代目三代目と歴代の「三ちゃん」(もしくは「私の猿」)に対する子母澤寛の愛情は、海より深くなったのでした。実際、二代目三ちゃんには口移しで睡眠薬を飲ませている。やりすぎなのか、それともこれが猿の飼い主の常態なのか。もはや正解がわからない……!
ですが、「流石、大御所!」と思ったのは、三代目三ちゃんが重い病かもしれないとなった際、伝手を辿って獣疫学の権威だった東大の教授に診てもらっているところ。そうだった! この猿好きのおじさんは、あの子母澤寛なのであった!と改めて感じ入りましたが、それくらいこの本の中には猿のことしか書いてないのです。そして、全体話しかけるような文体のため、まるで子母澤寛が自分の横に座って語りかけてくるような感じがあって、その上エピソードの挿入の間合いが激烈に上手いため、何度繰り返し読んでも飽きがきません。
ただ、正直なところ「えっ!?」とドン引きするようなエピソードも多々。深い愛情を持ちながらも、時に大変身勝手なんですね。勝手なんだなぁ……。
それは、胸に手を置けば自分にも身に覚えがあるような、言ってしまえば人間の持つ身勝手さです。だから子母澤寛だけを声高には責められないし、根本的な部分において、彼の猿や犬らに対する愛情は、生半可なものでは決してない。
そうわかっていても出鱈目なことがいっぱいあって、それは獣だけではなく人間についてもそうで、そして時代は太平洋戦争の真っ只中。実際のところ、当時の人心は相当荒んでいたのかもしれません。
それでも、出鱈目な中にキラキラと光り輝くような、生きたものがはなつ善き感情とか、同じ時代に生きたもの同士の絆とか、しんじつ大切なのはこういうこと、と思えるようなものが感じられ、どうにもこうにも涙が溢れて止まらなくなってしまうのです。
例えば、三代目三ちゃんが臨終を迎えた時のこと。
「おい三ちゃん、お前はな、赤ん坊の時からおれのところへ来て、人間というものの中でばかり育ったんだからお猿の言葉は知らないんだ。冥土へ行って仲間と逢っても、挨拶をすることも出来ないだろう。な、だから三途川の辺りへ行ったら、そこで遊んでいておとうちゃんの行くのを待っているんだぞ。おとうちゃんももうそんなに長くは生きていない。きっと娑婆からやって来る人間の来る方に気をつけて、待ってなさいよ」
人も獣も、渾然一体みな一緒なのかもしれません。人だからとか獣だからというよりも、縁の深さが大事で全て。
『愛猿記』を紐解けばいつも、ここら辺りからひたすら涙が滂沱として流れてしまうため、読み終わると私の頬は、いつも泣き濡れているのでありました。
『愛猿記』中央公論新社
子母澤寛/著