2020/10/12
横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店
『聖なるズー』集英社
濱野ちひろ/著
私には愛がわからない
私にはセックスがわからない
本書はこのようなセンセーショナルな告白からはじまる。デリケートな自身の内面について書き綴ることは、とても勇気がいることだっただろう。けれど、ここからすべてが始まっている。ずたずたに切り裂かれた心と、ぼろぼろにされた身体。こんな境遇に陥るはずではなかったと、どんなに助けを求めても、心と身体、そして魂にまで到達する深い傷は自身の力を持ってしか回復させることはできない。
著者は10代から20代にかけて、パートナーから性的暴力を含む身体的・精神的暴力を受けていた。暴力はほぼ毎日繰り返され、過去の恋愛を詰問し怒り狂い、殴る蹴るの暴行、そして同意のないセックスへと至るのがいつものパターンだった。激しい暴力に疲れ切り、朦朧とする著者のすぐ横に、火が放たれたこともあったという。
こんな人からは、一刻も早く逃げ出すべきだ。でも、そんなことは到底できない。暴力は心を恐怖で支配し、逃げ出す勇気も活力も、たやすく奪う。やがて著者はこのパートナーと婚姻関係を結んだ。これは賭けだった。婚姻という法的に認められた「契約」を結ぶことは「暴力」をれっきとした犯罪にし、周囲の人に助けを求められると同時に、解放される手段になると踏んだのだ。はたして、彼女は賭けに勝った。
しかし、ここからが新たな苦しみのスタートでもあった。目の前から、暴力をふるう人はいなくなった。けれど暴力によって奪われた多くのことは彼女の心を蝕み続けた。逃げ出せなかった自分を責め、なぜ自分だったのかと怒りが込み上げる。人を愛することや、互いの愛情の上に成り立つセックスへの猜疑心と嫌悪感。最上の喜びにもなりえる愛とセックスを、鼻で嗤い軽蔑することでしか、自分自身を守れなくなっていた。
だが、愛やセックスを軽蔑するだけでは、決して傷が回復しないことは明白だった。
著者は自らの傷に正面から向き合う決意をした。暴力が始まって12年以上たち、逃れてから3年がたつ頃だった。性暴力やDVに関する書物を読み漁り、話せる人には過去の傷を打ち明けた。DV被害者のパレードにも参加した。でも、立ち直ることができなかった。それから数年後、大学院で愛やセックスについて学術的に研究する道を選んだ彼女に、思わぬ転機が訪れた。それは、「獣姦」という言葉をきっかけとして眼前に現れた「動物性愛」という言葉だった。「動物性愛」とは、「人間が動物に対して感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を抱く性愛のあり方を示す」ことであるという。
動物とセックスをする。愛があるから。動物性愛者の性には、愛とセックスのわかりにくさとねじれがあるように思えた。
著者はこの愛の形に自らの問題との共通点を感じた。動物性愛者の愛とセックスを知ることは、もつれた問いを解く鍵になりえるのではないかという予感もした。葛藤も迷いも、もちろんあった。しかし、ほどなくして、ドイツにある世界唯一の動物性愛者による団体「ゼータ」のメンバーとコンタクトを取りはじめた。
動物性愛者たちは、自らのことを「ズー」と称する。これは動物性愛を意味する「ズーフィリア」の略語である。著者は2016年の秋と、2017年の夏のおよそ4か月をドイツで過ごし、ゼータとその周辺のズーたち22人と知り合った。現在ゼータに所属するメンバーは30人程度で、ほぼ全員がドイツ在住のドイツ人であり、男性が圧倒的に多い。ゼータという団体があるにせよ、動物性愛の偏見はドイツでも根強い。
メンバーは基本的にはチャットやメールでやりとりをし、動物のパートナーの体調の相談や、日々のちょっとした事を報告し合っている。この点だけを鑑みると動物がパートナーであること以外には、私たちと何ら変わらない日常を送っているように思える。しかし、「動物」がパートナーであるという事実は、「人」をパートナーとする私たちからすると、やはり受け入れがたく、見えない壁で断絶された世界の向こう側にいる人々だという印象が否めない。
ズーであることをカミングアウトしており、自分のことを書く時にはパートナーのメス犬ともども本名で書いて欲しいと唯一申し出た、ミヒャエルという男性がいた。彼は初期の頃からのゼータのメンバーでもある。彼が動物との性的接触を初めて行ったのは13歳の頃だという。近所のオス犬からの静かで熱い視線に導かれるように「彼」に近づいてみたあの日、フェンス越しに指を舐められ、衝撃が走った。その衝撃はミヒャエルの身体を貫き、明らかな身体的変化をもたらした。それは、「普通」の男性ならば女性の身体を前にして起こる反応だった。
「泣きそうで、息がぜえぜえ上がった。興奮やら、愛のような感情やら……。それからくつろいだ感じ。いろいろごちゃ混ぜになった感情の波に襲われた」
彼は、動物に対して「ノーマル」な感情を抱けない自分に気づきながらも、「アブノーマル」な自分を受け入れられずにいた。20代で鬱病を患い、カウンセリングに通っていた時期もあった。28歳の時には、最大の挑戦として女性との結婚も経験した。「ノーマル」でいたいと望んだ彼が進んだ道は、自分自身の首を締め上げる呪縛であり足枷でもあった。しかし、結婚生活の途中で「ズー」の存在を知り、心底救われる気持ちがした。自分だけがこの性的思考について苦しんでいるのではなかった。離婚後、彼は初めてオス犬のパートナーを得て、セックスをした。間違ったことも恥ずかしいこともしていないと語る彼だが、ノーマルになりたかったと苦しげに語ってもいる。
著者はズーたちとの対話を重ねるうちに、動物をパートナーにすることに至った経緯にはその人だけが辿ってきた道があり、その人とパートナーだけの特別な物語があることを知る。犬をパートナーとする人、馬をパートナーとする人、たくさんのネズミと暮らす人。同性同士、異性同士の組み合わせ、挿入する側、挿入される側。セックスが介在するパートナーシップ、介在しないパートナーシップ。生まれつきの「ズー」だと言う人。パートナーからの告白により、「ズー」的な経験をしたことがあると思い出した人。カミングアウトをする人、しない人。
また、ズーたちが語る証言には不思議と重なる言葉があった。それは、パートナーとのセックスは、「動物」が誘ってくるものであり、「人」もしたいと思う両者の合意のもと成立するということ。パートナーが気持ちよくなってくれさえすれば、挿入の有無は関係ないこと。どんな動物でもいいわけではもちろんなく、動物である「彼」や「彼女」のパーソナリティを愛しているということ。
「ズー」と言っても、一言で片づけられる人は一人として、あるいは一組としてない。多種多様な愛の形、そして想像をはるかに超える「人」と「動物」のセックスを伴う愛の姿。動物性愛者の愛とセックスに片鱗を見た、自分自身の問題へと繋がる道は曲がりくねり、どこにもたどり着けないような焦燥感が襲ってくる。しかし、永久に続くかのように思えた真っ暗闇の中、著者は希望ともいえるような気づきを得る。
人間と動物が対等な関係を築くなんて、そもそもあり得ないと考える人は多いかもしれない。だがズーたちを知って、少なくとも私の意見は逆転した。人間と人間が対等であるほうが、よほど難しいと。
著者は、人と動物の間に「言葉」にできない、あるいはするべきでないくらいの神聖な愛を、垣間見た瞬間があったのではないだろうか。言葉がないがゆえに、瞳と瞳を絡ませ合うコミュニケーションから立ち上る濃密な愛。その人と、その動物だけのパーソナリティ、何も取り繕う必要のない「魂」が混じり合って生まれる、たった一つの愛の形。それは、「人」が心から欲しながらも、あっけなく壊れてしまう純粋な愛であり、言葉からの支配を逃れたからこその、まっすぐな愛だったのではないだろうか。
著者は、決して動物性愛を推奨しているわけではない。もう、犬は飼えないかもしれないと恐れのような感情を吐露する場面もある。しかし、特殊な愛の形を実践する「ズー」と出会ったことで、その心はゆるやかに変化を遂げていった。
怒りや苦しみから目を逸らすことはもうない。私はいま、性暴力の経験者として「カミングアウト」をしている。それは過去の自分を受け止め、現在から未来へと繋ぐ作業だ。
なにより「ズー」の語る愛に、耳を傾け言葉を交わす間、そこにはたったひとつのパーソナリティとセクシャリティを持ち合わせた、かけがえのない“私”と“あなた”だけが存在していた。これこそ、今まで体験できなかった新しく希望に満ちた「愛」の形であり、ズーたちが実践している愛と同じ場所にあるものだった。
本書と対峙する時、今まで自分が知っていると思っていた“愛”と名付けていたものは、ガラガラと音を立てて崩れていく。築き上げたパーソナリティは靄に包まれ、自認するセクシャリティの足場さえ揺らぐ。知らない方が良かったと、世界のあまりの多様さに絶望すら覚える。けれど、著者が紡いできた言葉たちは、そんな私のちっぽけな落胆や混乱をやすやすと飛び越えていく。どの道へ進むのも、進まないと決断するのも、自分自身が決めること。その判断基準は、まだ知らない私自身のパーソナリティに、そしてセクシャリティの中に潜んでいる。
出会ったことのない愛の姿が心の中に芽生えていく。この芽が育ち、たおやかな実を成すことが、今では私の願いになっている。
『聖なるズー』集英社
濱野ちひろ/著