2021/12/15
長江貴士 元書店員
『科学するブッダ 犀の角たち』KADOKAWA
佐々木閑/著
本書は恐らく、見ただけでは何の本かさっぱり理解できないだろう。本書は、一言で要約すれば、「科学と仏教は似てるぜ」という主張をする本だ。あぁ、よくある類の本ね、と感じた方、ちょっと待ってください。本書では冒頭で、著者自身が、「科学と仏教に共通項を見出すこと」への慎重な態度を表明しているのだ。
(科学と仏教は似ているという類似する多くの主張は)自分が比較したい点だけをひっぱり出してきて並べて見せて、「ほら、科学と仏教にはこんな共通点があるんです。だから科学の本当の意味を知るためには、仏教の神秘や直感を理解する必要があるんです」といった愚論を開陳するはめになるのである。肝心肝要な部分に神秘性を持ってきて、それで科学の意味づけをしようという安易な論法である
確かに科学と仏教のひとつひとつの要素を見ていけば、似ている点は見つかる。しかし実際には、その何百倍も何千倍も、似ていない点があるのだから、個々の類似点をもって、両者の相対的類似性を主張することなどできない
どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。原子論でも相対性理論でも、心理分析でも量子論でもカオスでもなんでもいい。それらと似たものは必ず仏教の中にもある。しかしそれはあくまで「似たもの」にすぎない。意識的に似たものを探そうと思って探せば見つかるということである。同じ人間が考えることだから、洋の東西を問わず、似たような考えが生まれてくるのは当たり前のことだ。だから、それが見つかるからといって仏教が特別にすぐれているという証拠になるわけではない
著者は自ら、「科学と仏教に共通項を見出すこと」への困難さを先に取り上げる。そして、これらの困難さについて理解しているという前提のもと、ではどのような観点から両者の共通項を見出すのか、という話になる。
それが、「神の視点の排除」である。
本書で言う「神」については、少し説明が必要だろう。もちろんそれは「GOD/創造主」という意味でもあるのだが、基本的にはそうではない。本書の文章から引用してみよう。
我々の脳が「世界はこうあるべし。こうあった時、それは最も美しく心地よい」と感じるような視点、それを神の視点と呼んでいる
分かるだろうか?例えば大昔は、「地球の周りを太陽が回っている」と考えられていた。これは、「地球こそ宇宙の中心である」という考え方から生まれたものであり、人々はこう考えることで「美しく心地よい」と感じていたのだ。
しかし現代では、「太陽の周りを地球が回っている」と考えられている。この「天動説」から「地動説」への変遷は、理論的な説明に支えられているわけではない「美しく心地よい」という「神の視点」を排除した、ということになる。
これが本書で言うところの「神」である。「人間が、理屈抜きで前提としてしまうこと」だと思えば良いだろうか。
そして、科学と仏教は、この「神の視点」を排除する方向に進んでいるという点で共通する、というのが、本書で著者が提示する考え方である。
本書では、科学側の具体例を、「物理学」「生物学」「数学」の3分野について語る。しかしここでは、「物理学」に話を絞ろう。「物理学」の世界において、いかにして「神の視点の排除」がなされてきたのか、これから見ていく。
革新的な重力理論を打ち立てたニュートンや、天体の運動法則を見出したケプラーなどの物理学者は、実は「神」を信じていた。これは「GOD」の意味だ。つまり、「神」は存在し、その「神」がどのように世界を動かしているのかを理解しようとするのが自分たちの仕事である、と考えていたのだ。
科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人智を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の解明がそのまま神の存在証明になり得たのである
かつては、科学的に現象を説明することが、「神の御業」を説明したことになり、ひいてはそれが「神」の存在証明と考えられていたのだ。
しかし、アインシュタインがこの状況を一変させる。それを理解するために、ニュートンが主張した「絶対時間・絶対空間」の話をしよう。
これは、「誰にとっても時間・空間は一つしかない」という考え方だ。要するに、体育館のような「空間」がドーンと一つ存在し、その中に地球や太陽や火星が浮かんでいる…という考え方だ。この体育館のような空間を「絶対空間」と呼んでおり、これを時間についても考えたものが「絶対時間」だ。この考え方は要するに、「神の視点から世界を見ている」ことになる。神の視点からすれば、空間や時間が一つしかない、というのは、当然の主張だろう。
しかしアインシュタインは、「人によって、時間の流れ方も、空間の捉え方も異なる」という主張をした。Aさんにとっての1時間が、Bさんにとっての1分にもなり得る、というのだ。これは、直感的には受け入れ難いが、様々な実験により、アインシュタインの主張が正しいことが分かっている。アインシュタインは、「光」というものについて精緻に考えを巡らすことで、この考え方に行き着いた。つまりこれは、「人間の視点から世界を見ている」ことになる。人間の目に世界がどう映るのかを物理法則にしたわけである。このニュートンからアインシュタインの流れによって、物理法則から「神」が追い出されることになった。
しかし話はここで終わらない。アインシュタイン自身も深く関わることになった量子論という物理法則は、「人間が観測していない時、微細な世界がどうなっているのか記述できない」という驚くべき主張をする。詳しくは触れないが、量子論において最も不可思議で理解不能な「二重スリット実験」の結果を踏まえれば、「観測するという行為」がどれだけ世界に影響を与えるのかが理解できる。
アインシュタインは、「人間の視点から世界を見ている」わけだが、しかしそこには、「人間が見ていなくても現象は存在している」という前提(=神の視点)が存在した。しかし量子論は、その考え方を排除してしまうことになったのだ。このようにして量子論は、アインシュタインとは違う形で「神の視点の排除」を行うことになった。
さてそれでは、ここからどう物理学は進んでいくだろうか?「神の視点の排除」という観点から考えるとするならば、量子論に残された「神の視点」を捉えなければならない。そして著者はそれを「人間が唯一の観測主体である」という視点に求めた。つまり、人間以外が世界を認識する場合の物理法則が生まれる可能性があるのではないか、と著者は指摘するのだ。
このような「神の視点の排除」の話が、「生物学」と「数学」についてもなされることになる。
さて、一方の仏教についてだが、本書の主張にとって重要なことを先に書くと、本書で扱われている「仏教」は、僕らが知っている「仏教」ではない、ということだ。「仏教」には様々な宗派が存在するが、僕らが知っている「仏教」はいわゆる「大乗仏教」である。しかし本書で指摘されるのは、釈尊が古代インドで最初に創始した「仏教」との共通項である。
釈尊が創始した仏教は、生まれによって定まっていた階級を努力によって乗り越えていく、という運動の中から生まれていった。だからこそ仏教には、「超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する」という考え方が最初から組み込まれている。仏教において悟った人というのは「超越者(神)」ではなく、「世の中はこういう原理で動いている(ただし仏教は、外界世界ではなく精神世界についての考え方だ)という法則を理解した人」である。「超越者」として世界の運行に手出し出来るわけではないが、そういう世界の中で自らの努力で進むべき道を切り拓こう、という発想なのだ。
そしてこの「超越者(神)」の存在を最初から仮定しない仏教は、「神の視点の排除」を目指す科学と親和性が高い、と著者は主張する。本書には、
仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい
とさえ書かれている。
「神の視点の排除」という共通項で科学と仏教を同類項で括ろうとする本書の試みは、非常に面白いと感じた。
『科学するブッダ 犀の角たち』KADOKAWA
佐々木閑/著