岡本太郎「芸術は爆発だ!」という言葉に隠された、シビれるようなインテリジェンス

坂上友紀 本は人生のおやつです!! 店主

『美の呪力』新潮文庫 
岡本太郎/著

 

「岡本太郎」と言えば、「芸術は爆発だ!」のひと。そしてこの言葉から想像される人物像は「感性で生きるひと」。それはそれで全く間違ってはいないのですが、太郎の著作を紐解くと、意外なほどに勤勉で真面目であったことが伝わってきます。

 

この『美の呪力』は、太郎芸術の大きな一つの爆発点であった「大阪万博」が開催されたのとちょうど同じ1970年に、元は「わが世界美術史」というタイトルで『芸術新潮』に連載されていた文章で、一見「詩的」で「感覚による」と受け取れる数々の表現が、読むにつれ論理的に納得のいくものになっていくプロセスがなんとも刺激的でたまりません! 他に類をみないような太郎独自の言葉づかいも、実は先行研究と実践の積み重ねのたまものなのだと分かったときの、その衝撃たるやー。
実際、「芸術は爆発だ!」も掘り下げていけばセンスと共にインテリジェンスがほとばしるのですが、「美」や「芸術」や「感性」といった本来掴みどころがないようなモノが、太郎の操る言葉の力によって、むしろ実証的にビシバシと定義づけられていく過程にシビれます!

 

なんとなれば、創作活動やフィールドワークにあわせて、めっちゃ本も読んではるやないかーいっ! しかも、美術・芸術の分野にとどまらず、歴史・考古学はもちろんのこと、宗教・哲学・文学の影も垣間見えてくる太郎の文章なのですが、やっぱりこれはあれでしょうか。かの子(※)の影響もあったのだろうか……。

 

(※)太郎の母・岡本かの子は、大正・昭和期に活躍した作家(小説、詩、短歌など実に多彩!)で、その独特なる生活スタイル(結婚観や子育ても)や耽美な作風も有名なのですが、代表作の一つである「鮨」に見受けられる良妻賢母な母親像と、太郎が語る母親(かの子)像とが断然噛み合っていないところも、一筋縄ではいかない感じで気になります☆

 

閑話休題、太郎の著作の素晴らしいところは、実地に理論が加わって、それが幾度も繰り返され攪拌されていく間に、更なる理論の飛躍と確かな説得力とを生み出しているところ! 本の知識からだけでも、絵を描く行為からだけでも到達し得ないような、どちらもあってはじめてたどり着けるような境地があることを感じさせてくれるのです。また、芸術的なことすらしばしば「断定」するのですが、この断定する(できる)凄みも半端ないです。
それについては、例えば本書中「X 夜–透明な混沌」のゴッホの死に関するくだりで、『彼の棺をとりまいて、弟テオ、ガッシュ医師、そしてわずかの友だち、みんなひどく泣いたという。それはゴッホその人の運命に対してというより、みんなが自分の奥に秘められている「夜」に衝撃を受けたのだと言った方がよい。』と語る『「夜」に衝撃を受けた』という表現が難無く導き出されるほどの、太郎の幅広い知識や見識などを列挙し展開していきたい気持ちもありますが(同様に、「透明な混沌」についても)、今回は本書において個人的に最もシビれた、太郎のある論について語りたい!

 

私はここで言いたいのだ。無い–あることを拒否するポイントからある・・を捉え、また逆にある側から無を強烈に照らし出すべきではないか。そういう弁証法的な捉え方によってこそ文化の全体像を照らし出すことができるのだ。
(『美の呪力』「I イヌクシュクの神秘」より)

 

本書で太郎は、「無い」ことと「ある」ことが、実は相反し(てい)ない、ということを、「石」、「仮面」、「組紐文」……などの具体例を挙げながら説明していくのです。

 

北極圏においては、土地の言葉で“人間的力で行為するもの”を意味する「イヌクシュク」の像(人型に石を積んだもの)は、石がただ積んであるだけで、石自体が特別なわけでも、石に何かが刻まれているわけでも、そして石と石とが接着されているわけでもない。ただ「石」であるところのそれを「イヌクシュクの像」たらしめるのは、「積むという人間の意志」が介在するからであり、また接着していないので簡単に崩れるその「イヌクシュク」は、崩れた途端にただの「石」に還ってしまう。
簡単に崩れることも太郎的には重要なポイントで、「石器時代」の「石器以外の残らなかったもの」(=木や布で作られた道具など、すぐに土に還ってしまうもの)にこそ「消えた世界の方がどの位大きく、無限のひろがりをもって躍動していたかということを、痛切に思う」と述べてもいるように、「無」と「ある」が近ければ近いほど、お互いを照らし合い、また、より清らかで無邪気な呪術性を帯びることができるのだと論じます。「無邪気」なのは、簡単に消え去るからこそ、「積む」以外の、例えば強大な権力や後世に名を遺すためにといったような邪(よこしま)な気持ちが挟まる余地もなく、呪術性を帯びるのは何のためでもなく積むがゆえに、純粋性を増すからかと思われます。
「仮面」も「作られたもの」だけど、誰かに被られ動き出した途端に、「もう仮面ではなくなる」。これも「無」と「ある」に置き換えることができ、やはり「(自分以外の何者かに)なるという人間の意志」によって、簡単に「無」が「ある」に、「ある」が「無」に入れ替わる。
一番興味深かったのが「組紐文」(アイルランドなどで発達した抽象文様。縄文土器の縄目模様などにも通じる)についての箇所なので、以下に引用します。

 

(略)中心というものがない。無限にのび、くぐり抜けてひろがる。世界を流動の相で捉える人々の造形だ。たった一人、一つのものが中心だとか力をもつなどという、こだわった権力意志ではない。自分たちを超えた運命がいつでもすれ違いながら流れて行く。それがどこに行くか、はじまりもなければ終りもない。とすれば、あらゆるポイントがはじまりであり終りである。だからどんな部分も、絶対感をもって宇宙に対する。価値でもなければ無価値でもない。無限の時空のなかに、みちてゆくエネルギーであり、意志だ。(略)
(『美の呪力』「Ⅺ 宇宙を彩る–綾とり・組紐文の呪術–」より)

 

きっちりと、「無」と「ある」とが両立しているよー! そして「組紐文」以外の、例えば人間の一生とか、宇宙のはじまりと終りとかにも通じると言えそうです。
ちなみに、ここでいう「みちてゆくエネルギー」がたまりにたまって「爆発」することが、太郎の言う「芸術は爆発だ!」の「爆発」です。火山が噴火するような噴きあげるエネルギーのようなもので、人が起こす「爆発」などでは決してない。曰く「静かで、透明で、神秘のすじが宇宙をおおうような、そんな精神のひろがり」であるところのこの「爆発」は、マンダラからも感じられる、とも太郎は言います。

 

このように道具一つとっても太郎の対象へのアプローチは真摯で真剣です。そして彼の根本には、芸術は生活であり人間の営みの全て、といった考えがあるために、生きることのぜんぶに真っ向勝負を挑んでいたであろうことも充分伺えます。
その姿勢からは、自分が接する物事に対してどこまで深く考え尽くすのか、それを決めるのは他でもない自分なんだぞ!と、叱咤激励されているかのよう。簡単に「無」に帰してしまうような、だからこそ清らかなことに向き合うほどに、日常のなかに今もかすかに息づいているような「美」への「呪力」にも気づくことができるのかもしれません。
が、とにかく刺激満載の太郎の思考回路に、雷鳴にうたれたかのようにビリビリシビれた、『美の呪力』なのでありました☆

 

『美の呪力』新潮文庫 
岡本太郎/著

この記事を書いた人

坂上友紀

-sakaue-yuki-

本は人生のおやつです!! 店主

2010年から11年間、大阪で「本は人生のおやつです!!」という名の本屋をしておりましたが、2022年の春に兵庫県朝来市に移転いたしました! 現在、朝来市山東町で本屋を営んでおります☆ 好きな作家は井伏鱒二と室生犀星。尊敬するひとは、宮本常一と水木しげると青空書房さんです。現在、朝日出版社さんのweb site「あさひてらす」にて、「文士が、好きだーっ!!」を連載中。

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