2022/03/03
UK-inspired
『新聞記者、本屋になる』光文社新書
落合博/著
新聞記者が退職後に街の本屋さんに転じた挑戦の記録である。普通のサラリーマンが会社を辞めて起業しようとすると、よほどの準備や覚悟がないと難しい。自らを考えても、普通の感覚ではなかなか踏み切れないと想像するが、著者は驚異的な行動力でそれをひょいと乗り越えて見せる。会社勤めの人々の多くは定年が迫ってくると、次の人生に何をしようかと迷い、それゆえに定年後の生き方を扱った本が良く売れるのが近年の傾向だ。著者は本屋になることを選んだ。理由は「正直、自分自身もよくわからない」と記す。
毎日新聞の論説委員を58歳で早期退職しての挑戦である。書店員の経験はゼロ。開業に必要なおカネも自己資金でまかなっている。構想段階から含めれば2年ほどの「準備期間」があったとはいえ、書籍もアマゾンなどの通販が全盛の時代に、あえて小さなリアル書店を東京都心近くに構えるという姿勢には頭が下がる思いがする。著者自身が「本屋はもうからない仕事だと分かっている」と認めているほどなのに、である。
しかし、本屋を「巡礼」したり、支えてくれる人との交流から生み出されるアイデアをひとつひとつ形にしたりするなど、著者は様々な工夫で開店に向けたプロセスを踏んでゆく。その歩みを淡々と記した本書は、自らの起業プロセスと開店後の営業努力を追った上質なルポルタージュであるともいえる。練達のジャーナリストだったからこそ到達できる「極み」であろう。家族の理解も重要だが、その点に関して著者が苦労している姿もリアルに描かれる。自らの思いに正面から向き合い、格好を付けることなく、等身大の自分をさらけ出している。
顧客目線でみるとユニークな本屋さんである。ベストセラーを置かず、店主がよいと思った本を仕入れる選書方針を貫く。本書の写真を見ると、しゃれたカフェのようでもあり、何かを研究するラボのようにも見える。足を運んでみたいと思わせる独特の雰囲気がそこにある。
コロナ禍でも著者はめげずに様々な工夫で対応する。店舗ではイベントを活発に行っていたが、コロナ禍に見舞われてからも、オンラインを活用したイベントを開き、多くの参加者を集めている。その適応力は目を見張るものがある。難局から打開策を導き出し、それを実行に移す行動力と課題解決力が発揮されている。
本書を通じて著者の姿勢はあくまで謙虚だが、厳しい環境の中で書店を経営するのは並大抵のことではないだろう。だがさまざまな努力によって目標を実現し、充実した日々を送る姿は、読み手にすがすがしい思いを感じさせる。
本書の前半に著者は、「僕が本屋を始めた理由より、僕が本屋を始めた方法を伝えることの方が意味あるのではないかと考えている」と記している。著者が意図したところではないかもしれないが、本書は大きな組織を離れた人が、退職後の時間をどう生きるかという人生の指南書としても読むことができる。
『新聞記者、本屋になる』光文社新書
落合博/著