2018/08/08
佐伯ポインティ エロデューサー
『徴産制』新潮社
田中兆子/著
性やエロスにまつわる物語が好きだ。
だから、『徴産制』という奇妙なタイトルの小説を知って、あらすじを読んだ瞬間に心惹かれた。
舞台は、2092年。
新型「スミダインフルエンザ」により、10~20代の女性の85%が死亡してしまった日本。
深刻な人口問題を解決するため国民投票により、満18~30歳の男性の性転換が義務付けられた。
その制度の名が「徴産制」である。
この小説では、人類は簡単に性転換できるようになり、新しい世界へ突入している。
例えば、性転換した後の男性が送られる施設の描写は、こんな感じである。
“性転換手術を終えた産役男は、日本各地に設けられた「産教センター」で四ヶ月の合宿を行い、産事教練を受けることになっている。
女の身体や出産、化粧や女らしい立ち振る舞いについて学び、女としての生活を体験する訓練であり、それを終えてから産役に就くのである。”
“また、産役であるにもかかわらず、なぜか出産そのものよりも性交について、時間が多く割かれた。週に一度はヴァーチャルセックス体験の授業があり、そこでは男を相手に、女としてのオーガズムを体験する。
このヴァーチャルセックス体験のせいなのかはわからないが、最初は女であることに違和感のあったショウマも、気がつけばごく自然に自分は女であると思うようになり、男が好きになっていた。”
(「第一章 ショウマの場合」『徴産制』より)
徴産制が施行された世界観は、緻密に作り込まれていて、リアリティがある。
だからこそ、読み進めていると「もしもこういう未来になったら…自分はどんな女性になるんだろう?どんな男性を好きになるんだろう?」と考えるようになっていくのだ。
読んでいるうちに、思い出したことがある。
僕は元々、自分の顔にコンプレックスがあった。
自分がブサイクなのを受け入れたのは思春期の後だ。今では、かっこよくはないけど、自分のふっくらした顔が好きになった。
おそらく時間をかけて、自分の顔を受け入れていったのだ。
しかし、数年前に不思議な出来事があった。思い出すと笑えるのだが…。
写真加工アプリ「SNOW」で、僕の顔と女性と顔を加工して交換したときのことだ。
相手は顔が小さい女性だったので、僕の顔がパンパンに当てはめられて、大変なことになっていた。
それと同時に、僕の同じ顔の、かなりモテ筋から外れた顔の女性が誕生していたのだ。
なんとなく、お笑い番組が好きそうで、飲み会で声がデカそうな感じの女性の顔だった。(僕はお笑い番組が好きで飲み会で声がデカい。)
あの飲み会で声がデカそうな子(僕)の顔を見た瞬間、「女性になるのは厳しい!!」と心の底から思った。
「全然可愛くない…」という絶望感を味わったのは初めてだった。
でもその絶望感は、中学生の時に鏡を見て気付いた「あれ…思ってたほどカッコよく…ない…?」という気持ちに似ていた。
男性としても女性としても絶望感を味わうとは…もう顔の呪縛からは逃れたと思っていたのに。
可愛い子、綺麗な子、お洒落な子がひしめき合う女子の世界にいったら、僕の顔は見向きもされないだろう。
できることは居酒屋で大声でオーダーをとるくらいだ。しかもそれは声だ。顔は関係ない。
SNOWで顔交換した後、なぜか(ま、まあ、まだノーメイクだしね…)と自分で自分に言い訳したのを覚えている。
男性としての自分の顔は受け入れたけど、女性としての自分の顔は受け入れられなかったのだ。
それ以来、メイクはしたことないし、女装したいと思ったこともない。僕は可愛い女性としての道は諦めたのだ…。(なんだこの話。)
『徴産制』でも、「性転換してみたら自分の顔がキツい…」と同じ展開が起きていて、僕は凄く共感した。
さて、この物語は、男性から女性になった、5人の視点で描かれる。
短編ごとにそれぞれのテーマは違い、どれも身近な問題である。
カッコよくない男性が、可愛くない女性に性転換してしまい、都会に出て田舎者としてコンプレックスを抱えたり、
エリート官僚だったイケメンが、プライドの高すぎる美女になってしまい、セックスや婚活に葛藤したり、
仕事のできない既婚男性が、華やかな女性になってしまい、仕事一筋で生きてきた妻に嫉妬されたり…。
見事に、男性が女性に性転換したら起きそうな、恋愛や家庭の問題が炙り出されている。
そしてそれぞれ、問題が解決して希望がみえたり、皮肉たっぷりの絶望が待っていたり、結末もまちまちだ。
そんな『徴産制』の中でも、すごく好きなセリフがあったので、紹介する。教師のセリフだ。
「人間は、オトコのコとオンナのコの二つに分かれてるんじゃなくて、ひとりの人間のなかにオトコのコとオンナのコの両方がいるんです。
そのどっちが多いかは人によって違うし、どっちを多くしたいかは自分で決めればいい。みんなもそのときの気持ちにあわせて好きな格好をしてください」
(「第四章 キミユキの場合」『徴産制』より)
ここを読んで、この物語は、自分で決める自由さを肯定している、と思った。
誰かに「男らしさ」や「女らしさ」、「こう恋愛すべき」「こう働くべき」「こう生きるべき」を規定される人生は、息苦しい。
他の誰でもない、自分が選択して決定できるからこそ、自由なのだ。
不条理に見える「徴産制」のルールにも、じつは選択の自由がある。
性転換することだけが義務であり、セックスや結婚、出産は義務ではない、という点だ。
望む望まないに限らず、性転換された後、男性はどう生きるのか。
それは、望む望まないに限らず、この世に生まれた後、人はどう生きるのか、という問いとほぼ同じである。
「男らしさ」「女らしさ」にこだわる人ほど、この小説を読めば面白いだろう。
あるいは、SF恋愛小説としても、ディストピア小説としても楽しめる。
楽しみ方に選択の自由があるからこそ、人生も物語も面白いのだ。
ー今月のつぶやきー
THE夏、な京都の鴨川デルタにて。
『徴産制』新潮社
田中兆子/著