2018/05/15
佐伯ポインティ エロデューサー
『もしもし』白水社
ニコルソン・ベーカー/著 岸本佐和子/訳
どうも、はじめまして。
「エロデューサー」を名乗って活動をしている、佐伯ポインティ(@boogie_go)と申します。
元々は漫画編集者だったのですが、男女楽しめるエロスのあるコンテンツをつくりたい!と思い、独立しました。
最近は、色々な性癖の人にインタビューして「猥談タウン回覧板」というメルマガにまとめたり、猥談を話したい人が集まる、「猥談バー」というイベントを企画したり、ヌード展を開催したり、しています。
SNSやイベント、企画が好きな僕ですが、普段、古今東西の性にまつわる書籍を読むことも好きなんです。
そうして、エロいことばかりしているうちに、このサイトでは、読んだ中で面白かったエロスのある書籍をレビューすることになりました。
好きなものは好き!って言ってみるものですね。
さて今回は、インターネットの匿名エロ文化と、テレフォンセックス小説について、です。
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とある女の子の友達に、「テレフォンセックスの会話だけで構成されている小説があるよ、おすすめだよ。」
と教えてもらった。そんな傑作があるのかと思って僕はその場でAmazonで購入した。『もしもし』という小説だ。
1組の男女が、匿名で電話しあうアダルト電話回線で出会い、テレフォンセックスを繰り広げる。
しかし、ただのセックスではない。お互いの興奮具合や、エロい妄想や過去の性体験を克明に披露しあうのだ。
同僚と自宅でポルノを観ながら毛布の中でオナニーし合った話、壁の一部になったお尻にローラーでペンキを塗られる妄想、営業中の宝石細工店の中でセックスする妄想、お互いのオナニーの仕方の詳細な告白…どこまでも性的ファンタジーは続く。
説明文はほとんどなく、最初から最後まで、純粋に2人の会話だけで成り立っている。全米ベストセラーになったそうだ。
『もしもし』には、思わず笑ってしまうような、それでいて感動的な、素晴らしい台詞が多い。例えば…
「ほう!聞くけど、本当にブラは外して置かなくていいの?」
「いいの。なぜかって言うと、わたし、わななかせるとき……いやだ、やっぱり言えない」
「そう言わずに、頼むよ、お願いだ、この通り、さあ」
「シャワー以外の場所でマスターベーションする場合、胸のほうもかまってあげなくちゃならないんだけど、誰もかまってなんかくれない、クスン。そこでどうするかと言うと、ブラを下げて、縁の部分が乳首とこすれあうようにするの。こうしておけば、両手を心ゆくまで下の部分のケアに使えるでしょ」
「ぼくはいま奇跡を経験している」
「そんな、ただの電話の会話じゃない」
「その電話の会話がぼくにはすべてなんだ。電話が好きなんだ」
「わたしも」
大げさな感じもするが、この「奇跡」という感覚は、僕には凄く分かる。
仕事柄、エロい人のエロい話を聞く機会が多い。(僕は比較的、いやらしい仕事をしている。)
そんな時「ああ、今生きてて良かった」と感じる瞬間がある。
それは「こんなエロい話をする人が実在しているのか!」という事実である。
『もしもし』の彼を感動させているのは、「オナニーのディテールが聞けた」という情報だけではない。
「オナニーのディテールを話す他者が、いま、存在している」という事実が、彼を感動させているのだと僕は考える。
『もしもし』が描かれたのは1993年だが、この感動は、おそらく未来にも続くだろう。
なぜなら、人間をいつでもどこでも繋がれるようにしたインターネットが、
匿名性を保ったまま、「エロい他者の実在」を感じさせることに適しているからだ。
ツイッターでは、裸の自撮りやハメ撮りだけをアップする「裏垢」が存在しているし、
2ちゃんねるにも、スレッド内にいる人のリクエストに応えながらエロい自撮りをアップする「女神掲示板」がある。
掲示板で相手を募集して、Skypeを使ってお互い顔を晒さずに身体を見せたり、エロい話をする「エロイプ」という文化もあれば、アメーバピグでは、アバター同士で卑猥なチャットする「ピグH」という文化があったり、ユーザー同士が使える仮想ソープランドがあったりする。
これらは全て、風俗やサービスではなく、ユーザー同士のコミュニケーション文化なのだ。
インターネットというテクノロジーは、確かに人類の進歩を推し進めたが、それを使うヒトという動物は変わらないのである。
これらのネット上のエロスは、体感を伴っていない、脳の快楽だ。
「私の王子様がどこかにいて…」「この空の下に俺の運命のあの子が…」という妄想は、脳が悦ぶ。
なぜなら、快楽や多幸感を司るホルモンであるドーパミンには、「快感や興奮を予感している最中に、快感を引き起こす」という性質があるからだ。
つまり、人間は快楽を期待するだけで、ある程度快楽を得られるのである。
つまり、『もしもし』で描かれたようなテレフォンセックスや、先ほど列挙したエロいインターネット文化があることによって、「エロい相手が世界に実在していること」を感じることができて、それによって0.01%でも「その相手とエロいことができる可能性」が生まれると、エロいことが好きな人間の脳には快楽が生まれる、ということになる。人間はこの強い快楽から、逃れることはできないだろう。
技術が発達していくスピードはめざましく、数年後、僕らの周りには「エロい相手が世界に実在していること」を感じさせる装置が増えるはずだ。
今、僕らがスマホでFacebookにアクセスしているような気軽さで、網膜にVR空間を表示させるような技術が生まれたとしよう。
そこでは、相手の存在の実感を伴いながら、肉体の触れ合い以外の全ての性的なコミュニケーションがあるかもしれないのだ。
もしかしたら、千手観音のようなアバターで無数の手で快感を与えることもできるかもしれないし、シロナガスクジラになってセックスできるかもしれない。
技術革新が起き続け、情報が爆発している現代で、性を営む僕たちの根っこを見つめたいなら、あなたにとって『もしもし』は素晴らしい小説だ。
テレフォンセックスの最中に、彼が言った台詞を引用してこのレビューを終わりたいと思う。
匿名を担保することによって、セクシュアルな秘密を共有し合える。
まさにインターネット上で得られる性的快楽を言い当てたような言葉だ。
「とにかく、きみは大人の男のコックの秘密の呼び名をぼくに教えてくれた。ぼくのコックじゃない、ぼくはこのさいどうだっていいんだ。そうじゃなく、きみが独りきりでこっそり思い描いているコックの呼び名だ。いいかい、そこがぼくにとって大事なところなんだ。ぼくは秘密を知り、秘密を共有し、それを大事に胸の中にしまっておきたい。信頼されて秘密を打ち明けたいんだ。きみが一人でイッて、そのことを誰にも言わない、それはセクシャルな秘密だ。それが起こったことを知っているのは、世界じゅうできみ一人だ。そこできみは、完璧に自分の思いどおりのやり方で自分を喜ばせ、望みどおりの空想を心に思い描く。そうやってきみが一人ぼっちでイッた何百回、何千回という時は、その一つひとつが、思い浮かべるイメージの順序も、中指の動きも、それがまさぐる襞も、下唇を噛むその力のこめぐあいも微妙に違っていて、同じものは一つとしてなく、しかもそれを知っているのは世界できみ一人しかいない。」
ー今月のつぶやきー
「今日をもって25歳、95キロになりました」
『もしもし』白水社
ニコルソン・ベーカー/著 岸本佐和子/訳