akane
2019/11/07
akane
2019/11/07
発達障害の子は、どこに生きる場所を見つけるべきなのか、ずっと考えている。
これは自分のテーマでもあるからだ。
幼稚園で集団に混ざったときから、どうも「ここじゃない」感はずっとつきまとっている。とにかく人の集団の中にいるとへとへとになるのである。帰宅部と定時退社は人生のデフォである。
でも、日本の組織はそれが学校であれ会社であれ、そこのきちんとした成員になるためには、家族的な濃密さ親密さを求められることが多い。決められた時間を超えて学校や会社にいること=組織に貢献することだとしたら、いつまでたっても居場所は見つけられないとうか、どんどん居心地は悪くなる。
たとえば職能給といっても、そこで言われる職能とは日本の場合、仕事の技能だけではなく、人格や転勤、長時間労働を厭わない精神の有り様が入ってくる。もちろん、諸外国だって管理職には求められるが、出世なんか望まない一般職、現業職でも要求されてしまうのがつらいところである。
これは将来、ろくな大人になれないぞ。と、なんとなく悟ってしまった。
なにせこちらは、セリフが一つしかない村人8の役を回避(ずる休み)するために、ひと月も前から言い訳を考え、工程表を作り、伏線をはり、強靱な意志でそれを回収し実行するほどの集団活動嫌いである。
大学のときには、数百人が入る階段教室で「これから当てていくから、どうしても嫌なひとは退出していい」という先生の冗談に律儀に反応して本当に退出した3人の中の1人でもある。そんなことをすれば、まっとうに答えるよりも目立つし恥ずかしいのでは、と言われれば本当にその通りだと思うのだが、こればっかりは性分でどうにもならない。見事に、上記のような学校、職場で「仲間になれなそうな人」なのである。
いっそ、変な人として生きていく手はある。
ぼくは人前でしゃべったり、演じたりするのが本当に苦手だが、実際にやるとけっこううけるのを、理解してはいた。
そりゃあ変なひとなので、受け答えなどがいちいちずれている。笑いの対象にはなるのである。
これはぼくの子も同じだ。
ぼくの子は、ぼくよりもずっと程度が重い症状を持っているが、異様にものごとに対して積極的で学芸会だろうが何かの公演だろうが、何でも出るのが好きである。自分と違って人生が楽しそうでいいなあとは思うが、見送るときはいつもひやひやしている。
先日も、クロースアップマジックを見物に行ったら、ステージに引っ張り上げられて(上げられる確率が常軌を逸して高い。きっと本人がとても登壇したそうな顔をしているのだろう)大受けしていた。まあ、確かに面白いのだ。天然芸といえば、これ以上の天然ものはないだろう。ガチである。
ただし、これは舞台というハレの空間、日常と切断された空間だから許されることであって、日常の教室では怒られてばかりいるし、アクティビティにも参加させてもらえないことが多い。
これも然りである。
休日に芸人の芸を見に行くのは面白いが、職場の同僚が芸人だったらちょっと考えてしまう。いいことばかりではないだろう。
だから日常でないところに居場所を見つけてしまうのである。
大学の教員というのも、日常でないというか、ちょっと変なことがむしろキャラクタの確立に役立つような商売なので。ぼくはそこを狙った。
もちろん大量一括採用がある仕事ではないから、なれるとは限らない。ぼくも「40代までになれれば御の字かな」と思って、民間企業をたくさん受けた。ただし、そこも変な人枠である。
民間にそんな枠があるかと疑うだろうか。
他の職種はよくわからないが、「そういう人って、ちょっと変わってるところがあるよね」というコンセンサスがある(のか?)、研究職や技術職を志望した。すると、「高校は行ってなくて、大検でしのいだんです」とか「1日20時間近くゲームをやりますが、ゲームのプログラムで収入もありました」とかいったエピソードを、なんだか武勇伝のように錯覚してくれる企業が出てくるのである。有り難いことである。
ただ、そうした「変わったひと枠」は、社会の中にそんなに数が用意されているわけではない(つづく)。
発達障害に関する読者の皆さんのご質問に岡嶋先生がお答えします
下記よりお送りください。
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