akane
2018/10/02
akane
2018/10/02
『ごめん、今日飲み会入っちゃって遅くなるわ』——19時。同棲中の彼から携帯にメッセージが入った。近所のスーパーからの帰り道。買い物袋を提げながら「はいはーい」と独り言をポツリとつぶやき、『了解』と返信する。同棲して3年。きっと私たちだけじゃなくて、同棲中のカップルはこんなことはしょっちゅうだと思う。だから別になんとも思わない。
「夕飯どうしよっかな」ここだけの話、今夜は彼の大好物の牛カツにするつもりだった。以前、たまたま入ったお店で食べた牛カツのおいしさが忘れられず、家で作ってみたら大好評。それ以来、牛カツは彼の好物のレパートリーに加わっていた。今日は記念日でもなんでもない日だったけど「金曜日だし」と思い、牛カツを作るための材料を買い込んでいた。
せっかく牛肉も奮発して買っちゃったことだし、ひとりだけどメニューはこのままでいこう。よくよく考えると自分のためだけに揚げ物、しかも牛カツを作るなんて初めてかもしれない。なんだかワクワクしてきた。
キッチンに立ち、まずは付け合わせのジャガイモの下ごしらえから。皮付きのジャガイモはうすくスライス。今日はひとりだし面倒だからフライパンで茹でることにした。塩を入れ、沸騰したらスライスしたジャガイモを投入。茹で上がってすぐに氷水につけると、ジャガイモのシャキッとした食感が残るんだ。添え物のレモンをくし切りにしておく。
次は、牛肉の筋切り。ギリギリまで冷蔵庫に入れておいた牛肉の横の筋を断ち切るように包丁を縦に入れていく。(この下処理をすることで、だいぶ食べやすくなってるんだけど、私の気遣いあいつ気づいてるのかな?)そんなことを考えながら、筋切りを終えた牛肉に塩こしょうを振り、再び冷蔵庫に入れて冷やしておく。
私の牛カツは天ぷら粉で作る。天ぷら粉に水を加え、とろっとしたかんじに。菜箸でぽたっとしずくを落とすと、すぐにしずくが消えていくくらいのとろみ感が目安だ。ふと、このとろみの塩梅がわかるようになった自分の成長に気づく。(彼の好物だから、作り続けるうちにいつのまにか得意料理になったのかもなあ)とまた余計なことを考えた。ひとりの部屋のひとりのキッチンだからか、ついついいろんなことを考えて料理をしている。まあ、こんな日もあっていいか。
「さて、揚げますか」牛肉にたっぷり天ぷら粉をつけ、パン粉にダイブ。サクサクになるように粗めのパン粉にした。ああ、ひとりでこれをたいらげちゃうんだと思ったら、甘い罪悪感が増してきた。油を入れたフライパンを熱し、菜箸を入れて気泡が出るくらいになったら、今度はそこに牛肉をそっとダイブさせる。「ジュワー」と油の音がひとりきりのキッチンに広がった。自分だけのために揚げ物をするなんて、ある意味贅沢な金曜日だと改めて思う。
こんがりした色が表面についたら牛肉を裏返し、肉の真ん中は火が通りづらいので油をトングでかけてあげる。揚げ物特有のベトーっとした空気を感じ、慌てて換気扇の空調を強くした。両面に色がついたらすぐに油から引き上げる。うかうかしているとおいしいミディアムレアの瞬間を逃しちゃう!
一緒に買ってきたベビーリーフとハーブ、さっき茹でたジャガイモで急いで付け合わせを準備する。ドレッシングはめんどうだし、白ワインビネガーとオリーブオイルで和えてから、塩こしょうでさっと味付け。これは間違いないでしょう。「サクッサクッ」揚げたての牛カツに包丁を入れた。うん、予定通りのミディアムレア。鮮やかな赤味がこちらを向くようにお皿に盛り付け、レモンを添えた。
そうだ、今日はいつもと違う味にして食べてみよう。前からやってみたかったお醤油に“ちょっといい粒マスタード”を添えてみた。「味、変えてみる?」と彼に打診しても、ウスターソース原理主義者の彼には邪道と言われるかもな。そう思ったらちょっと笑みが溢れた。そうなんだよね、本当はもっといろんな食べ方があるんじゃないか? って思ってたんだよね。もちろん、ウスターソースをかけてもバッチリおいしいけど、揚げ物=ウスターソースって決めつけるのはもったいない。
「いただきます」——21時。金曜日のひとりじめタイムの幕開けだ。お醤油とマスタードをつけて、牛カツを一口かじる。サクッとした食感。そして「揚げ物×牛肉」という最強図式による幸福感。ミディアムレア具合もいいかんじだ。ときには粒マスタードをたっぷりつけて頬張ってみたりして。うん、このつぶつぶした食感がたまんない。やっぱり間違いなかった!
長く一緒にいるから、お互いの好みは十分にわかっている。彼がウスターソースで食べるときは、私もウスターソースで牛カツを食べてきた。でも、今だけは、私だけのおいしいものを食べている! いないならいないでほっとする、ひとりじめの時間。たまにはいいよね。今度、気が向いたら「牛カツにマスタードとお醤油って実は合うんだよ~」と教えてあげよう。きっと彼もびっくりすると思う。まあ、気が向いたらだけどね。
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