akane
2018/07/10
akane
2018/07/10
神保町の喫茶店、13時。今日、取引先のお偉いさんとの打ち合わせがあった。店を支える大きな柱は一目見て年季が入っているのがわかる。ちょっと古臭いけど、なんだか落ち着くこの喫茶店の雰囲気はこの柱のおかげなんだろうな。終わる気配のない上司に話を延々と聞き流しながら、そんなことを思った。
「あれ?」隣の席からかすかにいい匂いが漂ってきた。「あっ…ナポリタンだ」思わず声に出しそうになる。ケチャップのいい香り、ちょっぴり焦げた肉厚な玉ねぎ。きれいなオレンジ色に染まったスパゲティに緑色のピーマンと薄茶色のマッシュルームの色が映える。OLらしき二人組の女性が運ばれてきたナポリタンに躊躇なく粉チーズをかける瞬間だった。あ、そういえば私お昼ご飯食べてなかったな。
甘ったるい香りが私を誘惑してきた。繰り返される上司の営業トークに「その話さっきもしてたじゃん」と飽き飽きしながら、隣のナポリタンに大ぶりのウィンナーがたくさん入っているのを確認する。そのとき決めた。今夜は絶対にナポリタンを食べてやる。この喫茶店の美味しそうなナポリタンを超えるものを私は作る。早く終われ、仕事なんて早く終わらせてさっさと家に帰る。今日はなんだかそんな気分だ。
夜、23時帰宅。
正直、毎日いっぱいいっぱいだ。30を越えて仕事にも慣れてきたし、やりがいもある。でも、やっぱり毎日笑顔でにこにこしながらてきぱきと仕事をこなすのは疲れてしまうことだってあるもんだ。家のドアを開けた瞬間、普段の私にやっと戻れた気がする。
いつものジャージに着替えて、さて、今日のお楽しみを作ろう。まずは、玉ねぎ。これは大きめのくし切りに。喫茶店のピーマンは細切りだったけど、私は断然、輪切り派だ。へたをとって種をくり抜き、厚めの輪切りにしたピーマンは最近野菜不足だったから多めに入れようと決めた。一応ダイエット中だからと、せめてもの気持ちで2本のウィンナーは斜め切りにしてかさましする。
塩分たっぷりのお湯を鍋に用意して、スパゲティたちを投入。ちょっと多めに茹でちゃおう。ねじってから鍋の上でパッと離すと、花火みたいに麺が広がった。こうするとちょっと料理がうまくなった気分になる。多少鍋から飛んじゃっても、それはそれでご愛嬌。
フライパンににんにくを入れて、油で熱する。ふわっとにんにくのいい香りが漂ってきた。まずは玉ねぎを入れて強火でジュワーーっと炒める。焦げ目がついたら、そのほかの具材も合流させて強火で一気に炒めあげる。これだけでもおいしそう。
さあ、あの喫茶店のナポリタンの味をどうやって超えてやろう。そうだ、ケチャップだけじゃなくて別の調味料も入れてみようか。普段、和食にしか使わないけど、みりんはきっと主役の麺を照り照りのつやつやにしてくれるはず。もちろんお砂糖もたっぷり。ここまできたらもっと甘く、甘くしてやるんだ。
本当は8分茹でのところを6分で麺を鍋から引き上げる。私はしっかり焼いた感のあるナポリタンのほうが好きだから、あとは熱々のフライパンでソースと絡めながら麺たちを踊らせて火を通す。いい香りが漂ってきた。麺の芯が残らないくらいまで炒めたら、最後にもう一度ケチャップと、隠し味でバルサミコ酢を少々入れてみる。…うん、これはなかなかいけるかも。
どさっと大胆に器に盛ったら皿の余白を埋め尽くすくらい、しこたま大量のパルメザンチーズをふりかける。ああ、この潔い罪悪感たるや。黒胡椒をふったら私のだけのご褒美、ひとりじめナポリタンが出来上がった。
熱々のうちにいただこうと、急いでテーブルに移動する。撮り溜めたアイドルの録画番組でも見ながら今夜も楽しむとするか。三十路、彼氏なし、もちろん結婚の予定も特になし。側から見れば、こつこつと仕事に勤しむ私はずっと謙虚でちゃんとしていると思う。でも、私はまわりが思っているよりもっともっとよくばりなんだ。だからせめて、この特別な時間だけはひとりじめさせてほしい。
一口食べた瞬間、ケチャップの甘みがわっと広がる。すかさず玉ねぎ、ピーマンを交互に口に放り込む。うん、おいしい。じんわりとろけたパルメザンチーズのおかげでより贅沢な気分になった。そろそろ0時だ。今日、あの喫茶店でたまたま打ち合わせがあったから。あのとき、甘いケチャップの香りが私を誘惑してきたから。いろいろと理由をつけながらもナポリタンを思いっきり頬張った。最後に入れたバルサミコ酢がいい仕事をしてくれているせいか、いつもよりコクが増してる気がする。
たぶんこの時間に食べる罪悪感がよりおいしく感じるスパイスになってるんだろうな。そんなことを考えながら、ダイエットは明日からにしようと決めた。深夜、とっておきのナポリタンを食べるこの特別な時間は、私だけのひとりじめ。きっとあの喫茶店のナポリタンは超えられたはずだ。
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