akane
2018/09/24
akane
2018/09/24
「命をお金で買うことはできない」とは、フィクションの作中で正義感のほとばしる主人公あたりのセリフとしてよく使われる言い回しだ。同じように思っている人は多いのではないだろうか。
命は尊いものではあるが、世界を見渡してみると、個人の尊厳のみならず(主に人身売買)、命の継続をお金で買うこともできるし(主に医療費)、命に値段がつけられる状況はある。それもまた理想論や綺麗事では片付かない世界の現実である。人身売買や臓器売買、または殺人の依頼料金の相場のみのことをいっているのではなく、誰にだって「命をお金に換算する」局面がある。
代表的なのは死亡時の補償である。生命保険は掛け金に応じて変動するが、損害賠償(慰謝料)の場合には、死亡者の価値をお金に置き換えなければならない。誤解のないように言っておくと、金額は亡くなった方の本当の価値ではなく、生涯でいくら稼ぐ予定だったのかなどの基準で算出されることが多い。事故などで命をとりとめた場合でも、医療費や後遺症に対する補償としての慰謝料が発生する。
日本では、交通事故の場合に金額が億単位にいくのは稀で、重症を負わせた場合の賠償では数百万円(軽い怪我)~数千万円(大きな後遺症が残る)が算出される。ケースによって異なるので一概には言えないが、治療費は長く通院すればするほどかかるし、先が読めないこともあり、保険会社などが入って処理されることが一般的なやり方である。
ところが、国が変われば、それが常識ではなくなるところもある。
以前、フィリピンの首都マニラで、郊外に暮らしている友人の車に乗っていたときのことだ。運転していたのは、彼が現地で出会ったフィリピン人の奥さんだ。彼女は慣れた感じで運転していたが、マニラの交通事情は、経験したことがある人ならわかるのだが、本当にひどい。渋滞して1~2時間動かないなんてこともある。わずかでもスペースができれば前進するし、抜け道がありそうならば、強引に侵入していく。そうなると、必然的に運転も荒っぽくなる。
「こんな運転していたら事故にあったりしない?」
「フィリピンは事故が多いのよ」
こともなげに言う彼女に対し「それならもっと安全運転すればいいのに」と思うのだが、強引な運転が当たり前の社会では、彼女だけが改めたところで意味がないのかもしれない。それよりも気になっていたのは、フィリピンで事故が起きた時にどんなふうに処理されるのかだ。海外の事情というのは、知らないことはなんでも興味を持ってしまう。
「日本では事故が起きたら警察とか保険会社に連絡するんだけど、フィリピンではどういう処理の仕方をするのかな?」
「そんなの日本と同じよ……って、言いたいところだけど、違うところもあるの」
「どういうこと?」
運転中ということでちょっと困った表情を浮かべていた彼女に代わって、友人が説明を続けてくれた。
「この国でも事故は日本と同じように処理されるよ。でもね、お金が安いんだ。死亡したとしても10万ペソ(約25万円)ぐらいの賠償金で済んでしまう。むしろ大変なのは相手の車が高級車だったときだね」
「どういうこと?」
「フィリピンだと、TOYOTAの新車で400万円~500万円ぐらい。かなりの高級車になるんだよ。ほかの外車になったらもっと高いかも」
「こっちの物価水準からすると、相当な金額になるね」
「輸入車だと関税が掛かって高級車になってしまう。つまりだね、修理代もかかるんだよ。群を抜いた金持ちなら自分の車の修理代なんて気にしないんだろうけど、中には背伸びをしていい車を買っている人もいる。その車に万が一ぶつけてしまったら何を考える?」
「賠償金よりも修理代のほうが高い」
「そうなんだ。数十万ペソ単位の修理代を請求されてくる。修理に使うパーツも輸入品で高価なんだ。それを知ってるから高級車にぶつけた加害者は、法外な修理代を請求されたらたまらないって思って、その場から逃げちゃうこともある。おかしな話なんだけどね」
「でも、大事故になってしまったときはどうするの? そういうときのほうが車の損傷がひどいんじゃない?」
「そこが問題なんだよ。大怪我を負わせてしまった場合に、この国の人は恐ろしいことを考えちゃうんだ。怪我をさせた加害者が治療費を請求されるよね。加害者が考えるのは、相手にいつまでも病院に通われたり、半身不随とかの重症になったりした場合には、いくら請求されてしまうかわからない、ということ。そうなると、むしろ死んでくれたほうが10万ペソで安く済むって考えるんだ。その結果、重体の相手を轢き殺すってことも起きちゃうんだよね」
命の値段が安いことよりも、命の価値をどのように思っているのかを考えると恐ろしくなった。奥さんのほうが、補足するように言った。
「フィリピンの事故は損得で考えてしまうんです 。だから、相手が死んだ場合には修理費+10万ペソで考えるだけなんです。加害者は被害者の容態を気遣うよりも、お金のことで頭がいっぱいになるんです」
帰りがけに友人から「パッと見で外国人ってわからないと、お前も事故にあったときに瀕死だったら、トドメ差されちゃうから気をつけろよ 」と言われた。私はよく現地人に間違えられやすいため、彼も冗談混じりに言ったのだろう。外国人だと大きな事件になりがちなので、警察もきちんと動いてくれるらしい。でも、そんなことは気休めにもならないが……。
正義より自分の経済的なメリットを優先するという危険な思想に触れたことで、その後の取材でも「重体と死亡の境目」に注目するようになった。同時に、加害者側の考え方にも考えさせられた。
命の価値と正義について、再び考える機会を得たのはケニアを取材しているときだった。地元の治安について調べる一環で元犯罪者に話を聞きに行ったのだ。
「警察が怖くて、俺は窃盗団を辞めたんだ」
元犯罪者と連絡を取った際に、相手方から「とにかく警察に見つからないようにして会いたい」という要望が届き、慎重に場所を選び、喫茶店の奥にある休憩所と倉庫を兼ねたようなスペースで待ち合わせることにした。
そこで待っていたのは30歳になるかどうかの青年だった。彼には、地元の窃盗団の活動について具体的なエピソードを経験者として語ってもらうつもりだった。それが最初から想定外の方向に話が展開していった。
「ガキの頃からの仲間と一緒に窃盗団を始めたんだが、生きるために仕方なかったと思う。悪いことをしている自覚はあったんだ。だから、捕まったら更生しようかな、と思っていた。それなのに警察が殺しやがった。全員だ」
予想とは違うが、それはそれで興味深いので、もう少し掘り下げてみることにした。
「殺されたってどういうこと?」
「盗みに入ったあと、警察に追いかけられた。そのときに警察はいきなり銃撃してきたんだ。何度も撃ってきた。銃で何度もだ。それで、仲間は次々に倒れて死んだ」
「ガンショット」と連呼する彼の目は完全に憎しみと恐怖に支配されているようだった。
「君は撃たれなかったのか?」
「俺には弾は当たらなかった。でも、ほかにも死んでいない仲間もいたんだ。それなのに警察は、動けないそいつを撃ったんだ。生き残ったのは俺だけ。逮捕すればいいのに、殺すなんてひどいじゃないかと言ったら、取り調べには俺がいれば十分だから、ほかはいらないって言ったんだ」
自業自得だろという見方があるのはわかる。犯罪を実行したことについて弁護するつもりはない。ただ、警察が正義を執行したとは思えないということを強調したいのだ。
警察官は法の番人である。それが理想論なのはわかっている。だからといって、「ほかはいらない」という警察の発言は、犯人の人数が多いことを嫌がっているのだ。事件が起きれば取り調べや調書をとることが必要になる。そうなると警官たちは残業することもあるだろう。それを敬遠して、取り調べの人数を減らそうとする考えが、現場で犯人を減らすために殺すことに繋がっているのだ。つまり、取り調べや調書を取るのが面倒だから殺しているということを示しているのである。
そんな理由でトドメを差してしまうというのは、いくらなんでも危なすぎる。犯罪者だってもう少し別の理由で銃の引き金を引くだろう。大義名分としては犯罪者の逮捕という正義を執行しているのに、その根底にあるのが「余計な作業を発生させないようにしよう」という考えだ。単純に言えば、「面倒くさい」である。この考えは多くの局面で凶行を引き起こす危険思想の根源になるものである。私は「面倒くさいという病」だと思っている。
命を奪うことに正義がどのように関わっているのか、次回では別の角度からも見ていきたい。
株式会社光文社Copyright (C) Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.