akane
2019/04/03
akane
2019/04/03
こんにちは、お待ちかねの(?)なぜそこで改行?後編をおとどけします!前回「なぜそこで改行?ソノ単語ジャナイ編」をご紹介しました。おかしな位置で改行したせいで、その文やフレーズで実際使われていない単語が読み取れてしまう例です
(「ダイニングバー・サンセット」→「ダイニングバーサン・セット」)。
今回は、単語がまとまって句や文をつくるレベルでおかしくなってしまう例をご紹介します。文法的には何も間違ってないのに、 改めて考えるとなんかおかしな意味にとれてしまう日本語、まだまだ巷にあふれてますね。さあ今日のテーマはかっぱ寿司だ! 愛らしいかっぱちゃんたちじゃなくて、その上の注意書きに注目!
コレ見た瞬間の、ひとりひとりの客の脳内ビジュアルをのぞいてみたいものです。そして、印刷にまわすのにOK出した担当者とお友達になりたい気さえしてきます。
心理言語学的に考察しましょうとか能書きたれるまでもなく、改行というのは、書き手の意図に関わらず、大きな文法構造上の切れ目があることを示唆する働きがあることがわかります。ここでは「お子様がレーンを廻っております」までを一つの文とするような、文単位の切れ目を示唆する情報として作用しています。
しかし本来の書き手の意図としては「レーンを廻っております」の部分は以下のような関係節として「お皿」を修飾しているはずです。文はまだ続いているんですよね。
お子様が [[レーンを廻っております]お皿]の上のお寿司や商品に 直接触れませんよう…
しかし、おかしな改行さえなければこうした誤解の余地はないのでしょうか?もとより日本語には文の途中で関係節が開始したことを示す明示的なシグナルがないため、下に示すように仮にこの文におかしな改行がなくてもそこそこ紛らわしいですよね(『警察官が女子高生をトイレに連れ込んだ!?』参照)。子供たちが寿司レーンで廻り続けるシュールな映像を私たちの脳内で完全にシャットアウトすることは簡単ではないようです(↓)。
お子様がレーンを廻っておりますお皿の上のお寿司や商品に直接触れませんよう…
(改行なしバージョン)
このシュールなシーンを排除する難しさを加速させている要素が、実はこの文にはもうひとつあります。「レーンを廻っておりますお皿」というふうに、関係節内の述語が「です・ます」で終わっている点です。主文の述語は「です・ます」をつけても「だ・である」調でもどちらでも成り立ちますが、関係節の中の述語は、普通の書き言葉では「です・ます」にはしません。無理矢理そうすると、意味は通じるけどカタコトっぽい日本語に聞こえませんか。
レーンを廻っているお皿(違和感ナシ) vs. レーンを廻っていますお皿(カタコトっぽい)
寿司がのっていたお皿(違和感ナシ) vs. 寿司がのっていましたお皿(カタコトっぽい)
ただここで取り上げている例「お子様がレーンを廻っておりますお皿の上のお寿司や商品に直接触れませんよう…」では、お客さま相手の丁寧な話し口調をそのまま文字にしているというスタイルなので例外的に関係節の述語が「です・ます」調になっているのですね。(さらに「います」のかわりに謙譲語「おります」を使う習慣がついている模様。結果、自社商品じゃなくて客の子供を卑下してしまっているぞ!?)
ここでは、書き手にしてみたらお客様を敬って話しかけるような表現を維持したい気持ちなのかもしれません。しかし読み手にとっては、述語が「です・ます」調であるため、これは文末の述語っぽいぞという間違ったヒントを与えられているともいえそうです。それよりさっさとお寿司を食べたいのに…
そして、そう、トドメにそこでバッサリ改行されていたら、脳内の寿司レーンで子供が廻る事態を回避するのはほぼ不可能ではないかと思われます。
最近は「外国人(日本語学習者)にもわかりやすい日本語を」という試みが多くの自治体で行われています。その一環としてすべての述語の形を、彼らが最初に教科書で学習する「です・ます調」で統一したほうがいいのではという指摘があります。
関係節の中の述語はどうでしょう? っていうか日本語の関係節自体が紛らわしいんだよ!と思われるのも無理はありません。現在推奨されている「やさしい日本語」では、そもそも関係節自体を用いず表現しましょうという方向性が主流です。
一方、早くも30年ほど前に「簡約日本語」(https://www2.ninjal.ac.jp/nkanyaku/index.html)という、れっきとした国立国語研究所の取り組みがありました。そこでは主文・関係節を問わず述語を「です・ます調」で統一することもすすめられていたようです。するとこういうことか?
レーンを廻っているお皿(不親切) vs. レーンを廻っていますお皿(簡約日本語としてより正しい)
さすがにこうした用法は普及しなかったようですが(自分も高校生だった当時これを新聞で見て「ないわ~!」と思ったことを覚えています(笑)←「簡約日本語 北風と太陽」で検索してみてください)、気持ちとして、「外国人が、です・ます調しか習ってないんだったら、もう徹底してそれに揃えてあげたほうがわかりやすいと思う」「寿司屋でもスムーズに注文できるんじゃない?」という発想はわかります…
しかし一方、読み手一般にとって何が親切かをあくまで心理言語学的に考えた場合、文中に出現した述語が「です・ます」調なら、少なくともこれは関係節の述語ではなさそうだとわかるわけですよね。つまり「です・ます」にするしない、ということが主文と関係節で使い分けられていたなら、この述語をもって主文が終わるのか、終わらないのか、という情報を提供し、複雑な構文を解釈するヒントとしても働いてくれます。
我々が外国語を勉強するときにしょっちゅう実感する「使い分けがあって難しい」という事態は、裏を返せば「読み手にとってはヒントがより豊富」だという考え方もあると思いませんか。
というわけで、このかっぱ寿司の事例のインパクトの背景にあるのはおかしな改行だけではないというお話でした。ここまで書いておいて実はかっぱ寿司は近所にないので自分は行ったことがないのですが、もしかして本当にお子様たちがレーン上で廻っているという可能性もあるんじゃないかと不安になってきました。もしそうだったらかっぱ寿司関係者の皆さんごめんなさい!
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