あまりにも残念な柳家喜多八の早逝【第36回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

僕が『この落語家を聴け!』で「とにかく抜群に面白い。喜多八の高座を観て満足できない人は落語には向かない」と評した柳家喜多八も、柳亭市馬と同じく1993年9月に真打昇進しているが、年齢がだいぶ違う。市馬は1961年生まれだが、喜多八は1949年生まれ。高卒で小さんに入門した市馬に対し、喜多八は2浪して入った学習院大学に6年間在学し、卒業後いったん就職してから1977年2月に小三治に入門と、相当遠回りしている。

 

僕が喜多八のことを「すごく面白い!」と意識し始めたのは2001年頃。市馬と同じく喜多八にも、僕は良いタイミングで出会ったようだ。

 

1999年11月に発行されたムック『落語35』の落語家名鑑で喜多八の項を担当した演芸コラムニストの渡辺寧久氏は「一体何があったのだろうか? このところの高座の変わり具合と言ったら、一皮むけたという印象だ」「これは突然変異と言っていい」「喜多八は見事に芸転換しようとしている」「この脱皮が完了した時、新しい落語家が誕生していることだけは確かだ」などと評している。僕が追いかけ始めたのはおそらく、その「脱皮が完了した時」なのだろう。

 

気だるそうに出てきて、いざ噺に入るとこの上なくエネルギッシュ。そんな喜多八の高座は、他の誰とも違う魅力を放っていた。一言で表現すると、喜多八は「それぞれの噺が持っている面白さのポテンシャルを最大に引き出す演者」だ。そしてそれは、「演出」と「演技」の両面で際立っていた。

 

ありふれた落語を「えっ、この噺ってこんなに面白いの!?」と驚かせるほど個性的に演じるかと思えば、他の誰も演らないような噺でガンガン笑わせる。そんな喜多八の高座を追いかけて、僕はあちこちに行った。喜多八を応援する個人席亭が運営する「萬金寄席」「鳥越落語会」「百合ヶ丘寄席」といった小規模の会にも足を運んだし、本所吾妻橋の中ノ郷信用組合での「下町中ノ郷寄席」に喜多八が出ると聞けばいそいそと出かけた。僕が「地域寄席をマメに探す」という追いかけ方をしたのは喜多八だけだった。

 

喜多八は2つの「三人会」のレギュラーだった。1つは三遊亭歌武蔵・柳家喬太郎との「落語教育委員会」。もう1つは瀧川鯉昇・入船亭扇遊との「睦会」。もちろんこれらにも通った。前者は2004年になかの芸能小劇場でスタートしているが、その時は会そのものを知らず、2005年11月に博品館劇場で開催された時には「志らくのピン」と被っていて行けなかったので、初参加は2006年3月のシアターアプル。以後、ほぼ皆勤だったと思う。後者は池袋演芸場時代の2005年9月に初参加、東京音協や横浜にぎわい座でやるようになってからも通った。

 

2006年9月、喜多八のキャリアにとって大きな意味を持つ独演会がスタートした。博品館劇場での「喜多八膝栗毛」である。「高座三十周年記念三夜連続独演会」と銘打って行なわれたこの興行に僕は三夜連続で参加。以降、年4回(春夏秋冬)のペースで開催されるこの「膝栗毛」は僕にとって最も楽しみな公演の1つとなった。

 

『この落語家を聴け!』の「柳家喜多八」の項を、僕はこう締めくくった。
「虚弱体質などと言っているが、あのテンションの高い落語をきっとあと何十年も続けてくれるに違いないと、僕は期待している」

 

しかし現実には「何十年も」続かなかった。出版からたった8年後の2016年5月17日、喜多八は大腸ガンで亡くなった。享年66。あまりに早すぎる。

 

喜多八は2011年に大腸ガンの手術を受け、このときはすぐに高座復帰を果たしている。そして実はこれ以降、喜多八の落語はますます面白くなっていった。後にインタビューで自ら語ったところによると、喜多八は「病気のあと、余計な力が抜けた」のだという。

 

たとえば1つ具体的に言うと、『短命』が劇的に変わった。物わかりの悪い八五郎にご隠居があれこれ教える場面が、どんどん「無舌」になっていったのだ。表情と仕草だけで爆笑させる『短命』。これには本当に驚いた。2012年以降、喜多八は落語家としての絶頂期を迎えていた。

 

異変が起きたのは2015年10月。「喜多八膝栗毛」で喜多八は「板付き」で登場したのである。このとき喜多八は「足を悪くした」と言っていて「少し前にうちの師匠との会に這うようにして出た」とも語った。落語そのもののテンションはまったく衰えていない。11月に高円寺の落語会で観たときには、抱えられるようにして出てきて『うどんや』を演った。

 

2016年正月の寄席を休席した喜多八は1月6日の「喜多八膝栗毛」で「栄養失調で4日まで入院していた」と語った。このときの喜多八は板付きだっただけでなく、ゲッソリと痩せていて心配だったが、落語は相変わらずパワフルだった。

 

3月16日に練馬の「落語教育委員会」で『居残り佐平次』を、4月6日の「喜多八膝栗毛」で『筍』『だくだく』『子別れ』を観たときも、痩せていて板付きである以外は問題なさそうだった。それだけに、逝去の報を受けたときのショックは大きかった。

 

正直言って、僕は未だにそのショックから立ち直ってはいない。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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