「談志の晩年」の始まり【第51回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

 立川談志の最初の「異変」は、2008年4月8日、中野・なかのZERO小ホールでの「立川談志独演会」で起きた。

 

 この日は「昭和歌謡好き」という共通項で談志と親しい柳亭市馬が開口一番を務め、三橋美智也を歌いまくる『掛け取り』を演じた。談志のリクエストらしい。

 

 続いて登場した談志は市馬の高座を誉め、上機嫌のようには見えたが、「喉にカビが生えてる状態であると診断された」と言う談志の声はこれまでになく掠れ、本当に声が出しにくそうだった。

 

 2007年、談志は「体調が最悪」「声が出ない」「俺はもうダメだ」が口癖のようになっていて、かなり調子が悪そうな日も少なくなかったが、それでも数々の名演を残している。2008年に入ってからも、「喉の調子が悪くて最後まで演る自信がない」などと言いつつ声の不調を芸の力で補い、談志ファンを大いに喜ばせていた。とりわけ2月27日、赤坂区民センターでの「立川談志落語会」で披露した『天災』は絶品で、その出来に満足した談志は、この新演出をCDとして残すために、2日後の銀座ブロッサムでの独演会で再び『天災』を演じ、録音させているほどだ。

 

 この日も、「これほど声が掠れているのも珍しい」と思わせる状態ではありながら、一席目の『黄金の大黒』はアドリブ全開で、「フワフワした魅力のある談志噺」として楽しめた。

 

 休憩を挟んで二席目。談志は「市馬に『黄金餅』つけてくれと頼まれましてね……それを今日演ります」と宣言した。

 

 『黄金餅』は、2006年9月、横浜にぎわい座で市馬が「落語と昭和歌謡」という会をやったとき、ゲストで出た談志にオフィスエムズ(落語会企画会社)の加藤浩さんが「稽古してあげてください」と客前で頼んだ演目。2007年9月、市馬は談志と一緒に高崎の仕事に行った際、『青竜刀権次』と共に『黄金餅』の道中付けの部分のみ教わったという。

 

 マクラもそこそこにスッと入っていった『黄金餅』。やはり声が出にくそうだ。

 

 やがて場面は下谷の山崎町から木蓮寺までの道中付けへ。志ん生とは一味違う談志ならではの道順説明があり、さらにこれをもう一度、今度は現在の地名で言い直すのが談志流。と、ここで談志は噺を中断して「市馬ァ、ダメだぞ今日は!」と叫んだ。

 

 限界だ、という表情だ。

 

「二席目になればもう少し声が出るようになるかと思ったんだけど……」

 

 やがて寺の場面から再開するが、しばらくして「……もう、どうにもならない」とストップ。だが、談志は「ところどころ演ります!」と言って場内を沸かせ、地の語りを中心にダイジェスト風に語っていく。「ここで値切るシーンがあってな」「こんなギャグを入れてた」といった具合で、ほとんど「公開稽古」というトーン。このとき、市馬は舞台袖ではなく、客席側からこの「公開稽古」を受けていた。僕のインタビューから市馬の言葉を引用する。

 

「休憩中に廊下でウロウロしてたら、談志師匠が“これからおまえのために『黄金餅』演るから前に回って聴いてろ”って。そりゃあもう、スッ飛んで行きましたよ。もちろん客席は満員でしたから、真ん中の通路の後ろのほうで、正座して聴いていたんです」(アスペクト刊『この落語家に訊け!』)

 

 終演後、談志は市馬に「あんな感じで悪かった」と詫び、CDでちゃんと覚えろと言いつつ具体的なアドバイスをしたという。

 

 談志はこの日の『黄金餅』で、新しい演出を披露している。「生焼けにしとけ」と言って焼き場に西念の屍骸を預けた金兵衛が、夜明かしして戻ってきてからアジ切り庖丁で焼けた屍骸の腹を裂くのが従来の『黄金餅』だが、談志はこの高座で金兵衛に、焼き場に行くなり「すぐ焼けよ! 俺、立ち会うぞ!」と言わせたのである。

 

「考えてみると、屍骸を焼いて動かしたら金が出てくるでしょう? 先に見つかったら隠坊に金を持っていかれるよね。そこに気づいちゃったんだけど、その対策が出来てない。その前に何か場面を入れとくか……」

 

 この期に及んで「噺の穴」を発見して格闘する談志。さすがである。

 

 屍骸の腹を庖丁で切り開き、中から金を取り出す仕草へ。「市馬、ここんトコ、いい加減にやっとくからな!(笑)」 そして駆け足でサゲへ。ここでも談志は「餅屋をやって儲かったって、そこに何かヒネリを加えるなら、その餅屋の餅から小粒が出てきたとかね。『誰言うとなく黄金餅と……』って怪談風にするとか」と考察を加えた。

 

 「で、本当はこれをもっと克明に演っていく」と言った後、省略した幾つかの台詞を振り返って実際に演ってみせ、「演れるんならそのまま演ればよかったって話だけど」と笑わせる。「落語をバラバラに聴いたの初めてだろ?」

 

 『黄金餅』論を少し語った後で、談志はこう締めくくった。

 

「声が出ないから休んで代わりを出すというのではなく、声を限りに演るという道をあえて選んで……このほうがそっちも最後を見届けたって満足感があるだろうし。(笑) こういう高座ですみません。立川談志というドキュメントを観たということで勘弁してください」

 

 僕はこの日、稀有な経験をさせてもらった満足感と共に帰路に着いた。まさに「ドキュメントを観た」という思いだった。

 

 そんな僕には、談志の言う「喉にカビが生えてる状態」がいかに深刻な事態か、わかっていなかった。

 

 後から振り返ってみると、この2008年4月8日こそが、「談志の晩年」の始まりだったのである。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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