赤シャツ派と留学生たち。白いリボンに漂う世代の差ー西日暮里「タンマガーイ寺院」(2)
下川裕治「アジア」のある場所

コロナ禍で海外旅行に出られない日々が続きます。忙しない日常の中で「アジアが足りない」と感じる方へ、ゆるゆる、のんびり、ときに騒がしいあの旅の感じをまた味わいたい方へ、香港、台湾、中国や東南アジアの国々などを旅してきた作家の下川裕治が、日本にいながらアジアを感じられる場所や物を紹介します。

 

2020年9月、渋谷駅前で開かれたタイ人の反政府集会(撮影/下川裕治)

 

 タクシン元首相がやってきた東京のタンマガーイ寺。そこに僕を招待してくれたタイ人たちとのつきあいは20数年前にはじまった。多くが不法滞在で、茨城県の荒川沖周辺に住んでいた。この一帯は当時、リトルバンコクと呼ばれていた。タイ人スナック、タイ料理店、クラブ、食材店、タイ人向けの賭博場、送金店など200 軒以上の店が集まっていた。周辺には彼らが暮らすアパートが点在していた。
 そのなかに、僕がバンコクでタイ語を習っていたときの下宿の主人、その友だちも何人かいた。その関係で、さまざまなトラブル処理が舞い込むようになる。病気が多かった。中絶の立ち合いもあった。そのうちに、僕の携帯電話番号がリトルバンコクに広まり、「困ったときの電話」になってしまった。スナックから逃げた女性が交番に駆け込み、警察官から電話がかかってくることも多かった。女性たちは売春で生きていた。
 当時、僕は週刊誌の記者をしていた。舞い込むトラブルが記事になった。やがて仕事はテレビに発展する。テレビ朝日の「ニュースステーション」の特集番組にかかわった。通訳兼コーディネイターである。その番組が放映されてから1週間ほどたった頃だろうか。リトルバンコクに警察の一斉摘発が入った。
「ユウジ、タムルアット(警察)」
 頻繁にかかる電話を受けながら、終電で荒川沖に向かった。
 番組づくりに深くかかわったタイ人4人を僕のアパートに連れてきた。彼らは、警察というより、地元の暴力団を怖がっていた。売買春にかかわるタイ人スナックは暴力団とつながっていた。
「あのテレビ番組のせいだ」
 リトルバンコクにいたタイ人の多くはそう思っていた。
 リトルバンコクは忽然と消えた。
 多くが強制送還になった。
 しかし人と人の関係は消えなかった。
 それから1~2年。女性たちは日本に舞い戻っていた。パスポートの名前を変えていた。
 彼女らの多くが、偽装を含め、日本人と結婚し、日本での在留資格をとっていった。
 戻ってきたタイ人の大多数は、イサーンと呼ばれる東北タイの出身だった。タイでは貧しい一帯だ。バンコクに出稼ぎに出る人が多いエリアだった。
 彼らをバンコクの人たちはコケにしていた。イサーン方言を真似て笑う。仕事はきつかった。毎日、安いそばやもち米でしのぐ日々に耐えなくてはならない。
 それに比べれば日本は天国だった。言葉は通じないが、低くみるタイ人がいない。うまくいけば、バンコクの人たちの何倍もの金を稼ぐことができる。ひとりが成功すると、その親戚が日本にやってくる。保証人は日本人である。

 

 タクシンは人口が多いイサーンを地盤にしていた。出身はチェンマイだが、タイのなかの経済格差を巧みに利用した。安い医療システム、米の政府買いあげ……。彼が打ち出す政策は、イサーン優遇策にも映った。
 こう聞くとリベラル系の政治家のように映るが、彼の本質は違った。貧しいイサーンを票田として利用しただけだった。
 赤シャツ派と黄シャツ派の対立とは、実はそういうことだった。イサーンに与するタクシン元首相を、バンコクっ子は苦々しく思う。さまざまな手段で対抗するのだが、最終的な選挙となると、タクシンに票が集まってしまう。イサーンという大票田を確実に抑えていたからだ。
 タクシンが政権を担っていた時代、日本で働くタイ人の多くは、ある種の充足感を得ていたような気がする。イサーンにある実家の生活が楽になってきていたからだ。日本からの仕送りが大きかったとは思うが、タクシンの存在も大きかった。
 日本はタクシン派の海外拠点になっていくのだ。

 

コロナ禍でも多くのタイ人が集まった(撮影/下川裕治)

 

 2020年9月、現在のプラユット政権に反対するタイ人の集会が開かれた。渋谷のハチ公前にタイ人が集まった。
 プラユット政権は、赤シャツ派と黄シャツ派の対立のなかで生まれた軍事政権の流れのなかにある。2014年、プラユットはクーデターを起こして政権を掌握した。民政移管まで軍事政権だったが、その間に憲法を改正。総選挙を経て首相になった。大きな枠組みで分ければ、反タクシンを基調にしている。
 しかしコロナ禍のなか、学生を中心に、プラユット政権への反発の声が高くなる。バンコクでは連日、大規模な集会が開かれるようになった。
 渋谷で開かれた集会もそれに呼応するものだった。しかし会場で、
「そういうことか……」
 と呟くことになる。集会の中心で声を挙げていたのは、赤シャツ派のメンバーだったのだ。おそらく10年前、タンマガーイ寺に集まった人たちとかなりだぶっている。
 そこを遠巻きにするタイ人たちがいた。皆、白いリボンをつけている。タイ人留学生だった。反政府という主張では、赤シャツ派と学生は一致するが、世代が違った。学生たちは豊かになったタイを享受していた。バンコク生まれのエリート学生が多かったが、イサーンの大学生たちもいた。赤シャツ派と黄シャツ派が対立していたときは10歳にもなっていなかった。

 

白いリボンをつけたタイ人留学生たち(撮影/下川裕治)

 

 遠巻きにする女子留学生は、白いリボンで髪の毛を結んでいた。そこに、「Dior」のロゴが躍る。しかし前に並ぶ赤シャツ派のなかには入っていこうとしない。日本では赤シャツ派が強すぎる?
 集まったタイ人の前で演説をする赤シャツ派の人たちは感づいていた気がする……。
 彼らは日本に長くいる。彼らの仕送りで子どもたちは大学まで進んだのかもしれない。しかしその20数年の間に、タイは一気に豊かになった。日本にいるイサーン出身のタイ人女性は、相変わらず客に酒を注ぎ、カラオケの端末に番号を打ち込んでいる。海外に移り住んだ人は母国の空気感の外にいる。
 その不安を振り払うように、彼らはマイクの前で声を張る。
 “アジア”がいる場所は、ときにちょっと切ない。

 

「アジア」のある場所

下川裕治(しもかわゆうじ)

1954年松本市生まれ。旅行作家。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビュー。おもにアジア、沖縄をフィールドに著書多数。『「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『世界最悪の鉄道旅行』(新潮文庫)、『10万円でシルクロード10日間』(KADOKAWA)、「週末ちょっとディープなベトナム旅」(朝日新聞出版)、「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(中経の文庫)など著書多数。
YouTube下川裕治のアジアチャンネル

<撮影・動画協力>
阿部稔哉(あべ としや)
1965年岩手県生まれ。フォトグラファー。東京綜合写真専門学校卒業後、「週刊朝日」嘱託カメラマンを経てフリーに。

中田 浩資(なかた ひろし)
1975年、徳島市生まれ。フォトグラファー。97年、渡中。ロイター通信社北京支局にて報道写真に携わる。2004年よりフリー。旅行写真を中心に雑誌、書籍等で活動中。
https://www.nakata-photo.jp/
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