BW_machida
2021/02/26
BW_machida
2021/02/26
東京の高田馬場。そこにあるミャンマー料理店に座ると、いつも思い出す光景がある。
30年ほど前のヤンゴン。いや、当時はラングーンといった。その空港で、僕はミャンマー人の知人一緒に、ひとりの青年を待っていた。
あと2時間で僕が乗るバンコク行きの飛行機が出発する。僕が待っていたのは、一緒に日本に向かうはずのミャンマー人、民族でいうとビルマ族の青年だった。
「うまくいっている。軍事政権のなかに入り込んでいる仲間がいる。彼のところにパスポートが届いたっていう連絡は受けている」
そう知人は僕に説明した。一緒に成田空港まで向かい、僕の家に泊まってもらうことを説明し、彼が日本に入国する。そんな段どりもできていた。
当時の空港は小さかった。木製の机や椅子が並ぶ食堂があったが、食べ物はほとんどなかった。ミルクティーもなかった。僕らは水だけを買い、ただ待ち続けた。知人は何回となく電話をかけていたが、なかなかつながらない。出発まであと1時間……。
軍事政権下で一般のミャンマー人が外国に出ることは大変なことだった。まず、パスポートをつくることが難しかった。軍事政権内の役人とのつながりをつくり、賄賂を渡してようやく手に入った。取得するのに1年以上かかるといわれた。
その仲介役を担うのは、かつて民主化運動にかかわった人たちだった。前面にでることがなかった人たちは、軍事政権内に入り込むことができた。彼らにも賄賂は必要だった。裏金の総額は、日本円で100万円を超えていたと思う。当時のミャンマーではとんでもない額の金だった。
ひとりの男性が現れた。目の前にいる知人とは親しいようだった。彼が仲介役だった。
「いま青年は、パスポートを交付する役所にいる。あとはサインをして受けとるだけなんだが、今日、パスポートを受けとる人、全員が待たされている。なにかがあったのかもしれない」
それから30分待った。もう時間切れだった。まだ見ぬその青年は姿を見せなかった。
「次のチャンスを狙うよ。彼が日本に着いたら連絡させるから。いろいろ相談にのってくれ」
知人はそういって僕に向かって手を降った。その横に立つ仲介役の男性も手を振ってくれた。
結局、その青年は日本にやってこなかった。
うまく日本に入国できたミャンマー人とは、高田馬場の食堂で何人もあった。あるとき、食事をしていると、大きなスーツケースを手に青年が現れたこともあった。成田空港から直接、僕らがいる店にきたようだった。緊張した面もちが、店の主人と会うと一気に緩む。
「私の親戚の青年です。やっと日本にこれた」
店の主人はその青年を紹介してくれた。おそらく、しばらくはこの店で皿洗いでもするのだろう。
当時、日本にやってきたミャンマー人の多くが観光ビザだった。滞在期間は2週間。その間に彼らは、日本人の弁護士と一緒に出入国管理局に向かう。そこで難民申請をするためだった。
「軍事政権から逃れてきた」
それが難民申請の理由だった。
日本という国は、難民をほとんど受け入れていなかった。難民を受け入れるということには、政治的な主張が含まれていた。日本政府はそこにグレーゾーンをつくった。
難民申請をすると、入国管理局に収監されることが多かった。そこでいろいろと調べられ、最終的には仮放免という形で収監が解かれる。仮放免期間は最長で1年。そこでまた出入国管理局に出向く。不思議なことだが、その間は働くことができた。
高田馬場で店を開いたミャンマー人の何人かは、この仮放免経験者だった。
彼らが店を出すビルの上階には、ミャンマーの食材などを置いた雑貨屋が何軒かある。そしてその隣には、日本人の弁護士や行政書士のオフィスがあった。つまり、ここまで辿り着けば、その先の手筈を整えていくことはそれほど難しくはなかった。仮放免という、難民でもなく、不法滞在でもないという中途半端な立場だったが、なんとか日本で暮らすことができた。
こうして高田馬場にはミャンマータウンができあがっていく。リトルラングーンといったらいいだろうか。しかしほかのアジアの国の人々に比べれば、ミャンマーからやってくる人は少なかった。それだけミャンマーから出国することが難しかったのだ。
新大久保や池袋の一角に誕生したエスニックタウンに比べれば、店の数も少ない。なにげなく街を歩いても、ここにミャンマー人の店が多いことに気づかない人もいるかもしれない。
しかし東京にやってきたミャンマー人のほとんどは、この高田馬場がスタート地点だった。
ミャンマーで軍によるクーデターが起きた。10年近く続いた民政化はこれからどうなって行くのだろうか。あの暗い時代にまた戻って行くのだろうか。
先日も一軒のミャンマー料理屋で食事をしていると、ミャンマー大使館前での抗議活動に向かう若者が10人以上やってきた。店の主人は用意した弁当を渡していた。もちろん無料である。やはり高田馬場はミャンマー人の街だった。(つづく)
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