沖縄の若者が、泡盛を飲み、三線を弾きに集まる小路――中野・昭和新道商店街
下川裕治「アジア」のある場所

ryomiyagi

2021/04/02

コロナ禍で海外旅行に出られない日々が続きます。忙しない日常の中で「アジアが足りない」と感じる方へ、ゆるゆる、のんびり、ときに騒がしいあの旅の感じをまた味わいたい方へ、香港、台湾、中国や東南アジアの国々などを旅してきた作家の下川裕治が、日本にいながらアジアを感じられる場所や物を紹介します。

 

東京のなかの「沖縄」を求めにふらりと立ち寄る(写真/中田浩資)

 

 僕が沖縄病に罹っていた20数年前、那覇はまだアジアのにおいが残っていた。僕にとっての沖縄はアジアの先にあった。沖縄は日本とアジアの中間にある島なのだが、僕はまずアジアにはまり、やがて沖縄に出合うことになる。沖縄に漂っていたアジアのにおいはかすかなものだったのかもしれないが、僕の体内にはアジアへの受容体がたっぷりあったから、鋭敏に反応したのかもしれない。
 一時期、僕の沖縄病は重症だった。電車に乗り、「沖電気」の「沖」に反応し、テレビの天気予報を観ると、暮らしている東京より、左隅に表示される沖縄の天気のほうが気になった。
 東京にいてもいつも沖縄が体を支配する。神奈川県の鶴見に出かけたのは当然の流れだった。そこにはリトルオキナワがあるはずだった。京浜東北線の鶴見駅で降り、海の方向に向かって歩きはじめる。潮鶴橋を渡る。事前に調べた資料では、この先が潮田で、リトルオキナワが広がっているはずだった。
 しかし沖縄にはなかなか出合えなかった。沖縄料理店の看板はあるのだが、閉まっている店が多かった。仲通りに出た。ここがリトルオキナワの中心だったあたりだ。ここも寂れていた。途中に沖縄会館という3階建ての古いビルがあり、1階に「おきなわ物産センター」という看板が出ていた。なかに入ってみたが、客はほとんどいなかった。
 リトルオキナワは消滅しつつある?
 資料を読むと、この一帯の最盛期は戦前だった。造船所があり、全国から労働者が集まってきた。潮田には600軒を超える飲食店があったという。
 しかしそこに貼りだされた言葉が、気になった。
「朝鮮人、沖縄人お断り」
 この話は沖縄でも聞いていた。沖縄の人たちが本土に向かうとき、この言葉が、喉に刺さった骨のように浮かんでくる、といった沖縄の人がいた。沖縄病に罹っていた僕は虚を突かれたような気になったものだが、その貼り紙が出たのが潮田だったようだった。
 このエリアに住んでいた人々の思いをまとめた『記録』(1982年発行)という冊子がある。そこにこんな文章が掲載されている。
「──子供は五人いるが、子供たちが“琉球”とバカにされたくない。家も沖縄の人のいないところにと移っていった。子供たちは自分たちをウチナンチュだとは思っていない。奥さん自身、沖縄の人とは付き合いたくなかった」
 鶴見のリトルオキナワの衰退の一因は、そんなところにもあったのかもしれなかった。
 東京という街のなかに紛れるようにしてある沖縄……。そういうことなのかもしれなかった。沖縄料理店は中央線の沿線に多いとも聞いたが、それがひとつの沖縄ワールドをつくるほどではなかった。
 しかし東京のなかの沖縄に、ひょんな所で出合うことになる。タイのチェンマイだった。そこで新里愛藏という沖縄出身の老人と出合うことになる。彼はチェンマイに来る前、中野で『山原船』という沖縄飲み屋を開いていた。彼とのつながりが生まれ、やがて東京の三線愛好会などと話をするようになった。
 そして分け入ったのが、中野の昭和新道商店街だった。『山原船』はそこにあった。いまはすぐ近くに『あしびなー』という沖縄居酒屋がある。新里愛藏の『山原船』を引き継いだような店だった。新里愛藏は絵も描いた。彼の絵が店内に飾ってあった。
 昭和新道は中野駅北口から北にのびるアーケード街から東に2本ほどのところにある路地だった。三線愛好会はここでよく練習をしていた。それが終わると飲み会。僕はそれを見計らって店にいくようになった。

 

昭和新道商店街(写真/中田浩資)

 

『あしびなー』に出入りするようになり、ここがオキナワタウンと思うようになった。
 昭和新道商店街に沖縄居酒屋が多いわけではなかった。4軒ほどだろうか。しかし店にいると、近隣の店で働く沖縄の若者がよく顔をだした。新宿で働いている若者は、店にやってきて、延々と三線を弾き続けていた。なにかを忘れたいために弾いているようでもあった。そして終電を逃がすと、店で寝ていった。『あしびなー』はそういう店だったのだ。
 新里愛藏さんの本を書くことになり、昭和新道商店街についても調べた。この路地が沖縄を意識してできたわけではなかった。

 

沖縄料理屋が数軒並ぶ(写真/中田浩資)

 

 戦後、多くの若者が出稼ぎで東京にやってきた。しかし本土と沖縄の間にある溝に悩み、言葉の壁にぶつかった。そのなかで新宿区や中野区に「郷土の家」ができる。そこは東京に長く暮らす沖縄出身者が、週末、自宅の一室を沖縄の若者に提供するものだった。沖縄からきた若者は、ここに集まり、泡盛を飲み、三線を弾き、エイサーを踊った。
 中野区の「郷土の家」は上高田にあった。中野駅からそこに向かう道……昭和新道商店街だった。
 ただそれだけで?
 しかし『あしびなー』にいると、この路地の役割がわかってくる。
 中野は沖縄の祭りが多い。中野チャンプルーフェスタ、沖縄とアイヌがコラボするチャランケ祭り……。それ以外のさまざまな祭りに、三線やエイサーのチームが出演する。その打ち合わせや練習が、毎夜のように昭和新道商店街で行われているのだ。
「タカオはどこにいる?」
『あしびなー』に顔を出した青年が沖縄方言で話しかける。
「アマンで三線、練習してたさー」
 昭和新道商店街はそういう通りだ。オキナワタウンだと思う。

 

 

↓関連動画「沖縄の市場界隈。アジアのにおいを探し歩く」

 
「アジア」のある場所

下川裕治(しもかわゆうじ)

1954年松本市生まれ。旅行作家。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビュー。おもにアジア、沖縄をフィールドに著書多数。『「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『世界最悪の鉄道旅行』(新潮文庫)、『10万円でシルクロード10日間』(KADOKAWA)、「週末ちょっとディープなベトナム旅」(朝日新聞出版)、「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(中経の文庫)など著書多数。
YouTube下川裕治のアジアチャンネル

<撮影・動画協力>
阿部稔哉(あべ としや)
1965年岩手県生まれ。フォトグラファー。東京綜合写真専門学校卒業後、「週刊朝日」嘱託カメラマンを経てフリーに。

中田 浩資(なかた ひろし)
1975年、徳島市生まれ。フォトグラファー。97年、渡中。ロイター通信社北京支局にて報道写真に携わる。2004年よりフリー。旅行写真を中心に雑誌、書籍等で活動中。
https://www.nakata-photo.jp/
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