ずっしり重い「世界三種類目のパン」からシルクロードを想う――中野・新井薬師の中央アジア料理店
下川裕治「アジア」のある場所

BW_machida

2021/04/15

コロナ禍で海外旅行に出られない日々が続きます。忙しない日常の中で「アジアが足りない」と感じる方へ、ゆるゆる、のんびり、ときに騒がしいあの旅の感じをまた味わいたい方へ、香港、台湾、中国や東南アジアの国々などを旅してきた作家の下川裕治が、日本にいながらアジアを感じられる場所や物を紹介します。

 

中央アジアのパン(写真/中田浩資)

 

 そのパンの味をはっきり認識したのは、アフガニスタンのマザリシャリフだった。
 アフガニスタンに行くことは難しい状況が続いているが、かつて、タリバン政権が崩壊した後のしばらくの間、簡単に入国することができた。その時期、アフガニスタンをぐるりと一周したことがある。
 パキスタンのペシャーワルから入国し、ジャララバード、カブールと進み、北部のマザリシャリフに着いた。そこからヘラートに向かう朝だった。
 僕はホテル近くの食堂で朝食をとった。大きな木の下に四角い縁台のような台が3個ほど並んでいた。そこにあがり、朝食をとる。
 パンとチーズのようなヨーグルト、紅茶という簡単なものだった。出されたパンをちぎり、口に運んだ。
 しっかりした味だった。ずっしりとしていて、食べ応えがある。ベーグルに似ている気がした。なにもつけず、このパンだけで食べることができた。噛むほどに柔らかな味が口のなかに広がる。
 似たパンはこれまでも食べていた。東南アジアからインドに渡り、西に向かっていく。主食が米からパンに変わっていく。インドからパキスタンに入ると、ひとつのパンが大きくなっていく。何人かで車座になり、中央にパンが置かれ、それを皆でちぎって食べるスタイルになっていく。なかでもペシャーワルのパンはとびきり大きい。
 しかしアフガニスタンに入り、パンの味が変わった。よりしっかりした歯ごたえのずっしりと重いパンになっていった。

 

食卓の中心にはいつもパンが(写真/中田浩資)

 

 そのとき、僕は3種類目のパンに出合っていたことを、その後で知ることになる。
 1種類目は欧米型のパンだった。日本でも主流になりつつあった。しっかり発酵させ、適度な軽みがある。その代表がフランスパンだろうか。
 2種類目はアジア、そう東南アジアのパンである。甘みが加わり、パンというより菓子に近づいていく。タイ語でパンのことはカノンパンという。カノンは菓子のことだ。主食はあくまでも米であって、パンはあくまでも菓子だった。
 バンコクでタイ語を習っていたとき、クラスメイトはほとんどが欧米人だった。彼らはよく、
「バンコクにはおいしいパン屋がない。バンコクのパンは甘いんだ」
 とこぼしていた。
 日本のパンもかつては甘かった。しかしその後、食の欧米化が進み、いまでは甘いパンは少数派である。沖縄に行くと、その甘いパンの存在感が増す。沖縄ではほのかに甘い食パンが売られている。
 僕はこの2種類のパンの世界を生きてきたのだが、アフガニスタンで3種目にパンに出合った。それは「これが主食」と主張するパンの世界だった。
 たとえば日本人も、おいしい米のことを、「ご飯だけで食べることができる」という。それとまったく同じことが、アフガニスタンのパンにはあった。パンだけで十分……。そんな感覚だった。欧米型のパンは、やはりなにかと一緒に食べておいしいパンにだと思う。
 3種類目のパン──。それが中央アジアのパンだということをその後に知ることになる。シルクロードや玄奘三蔵のルートを歩く旅のなかで、そんなパンが日々の食卓を支配していくのだ。

 

ウズベキスタン・サマルカンドのレギスタン広場(写真/中田浩資)

 

 あのパンが食べたい。コロナ禍で中央アジアの空を見に行くこともできない日々のなかで思う。ネットで検索すると、「シルクロードベーカリー・シェル」という店がヒットした。電話で聞いてみた。出たのがシェルさんだった。店は春日部にあるが、毎日オープンしているわけではないという。しかし彼はこう続けた。
「でも、パンは毎日、新井薬師にある『ヴァタニム』という中央アジア料理の店に届けています。そこで簡単に買えます」
「新井薬師?」
「中野から新井薬師に向かう道の途中です」
 街の記憶がつながった。
 前回、中野の昭和新道商店街を紹介した。僕にとっての沖縄タウンだった。この通りを中心に企画される祭りのなかに「チャランケ祭り」があった。沖縄とアイヌが一緒になって開かれる。その手伝いをすることになり、その打ち合わせによく出向いた店があった。
 昭和新道商店街を抜け、早稲田通りを越えて新井薬師に向かう道……。そこにアイヌ料理の店があったのだ。僕は祭りが終わった後も、その店にときどき行っていた。
 僕の感覚では、沖縄の先にアイヌの店があった。それは東京という街のなかでの少数派の人々が店をもつ通りに映った。そのきっかけは、前回伝えた、沖縄の「郷土の家」だったのかもしれない。そこに沖縄の若者が集まるようになり、沖縄料理の店ができていく。そして沖縄に誘引されるようにアイヌの人たちが集まるようになっていく。

 

「ヴァタニム」店内。気分はすっかり中央アジア(写真/中田浩資)
スープと一緒に食べると、まさに中央アジアの食卓(写真/中田浩資)

 

 いまアイヌ料理の店はない。中野から新井薬師に抜ける道とも遠ざかっていたが、そこに中央アジアのパンが手に入る店ができた。
 日本にいる外国人のなかでは、中央アジアの人は少ない。沖縄、アイヌ、中央アジア……。そんなことを考えながらヴァタニムという店に向かった。シェルさんが店にいた。焼きたての中央アジアのパンを受けとった。
 パンが入った袋から、いいにおいが立ちのぼる。駅への道すがら、耐えきれずに、パンを少しちぎって口に運んだ。
 アフガニスタンのマザリシャリフの空が蘇ってきた。

 

 

↓ 関連動画「家でつくるアジア旅の味・中国カップ麺編」
中国から中東へ。日持ちのするウイグルパンは、長い列車旅の心強い味方。

 

「アジア」のある場所

下川裕治(しもかわゆうじ)

1954年松本市生まれ。旅行作家。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビュー。おもにアジア、沖縄をフィールドに著書多数。『「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『世界最悪の鉄道旅行』(新潮文庫)、『10万円でシルクロード10日間』(KADOKAWA)、「週末ちょっとディープなベトナム旅」(朝日新聞出版)、「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(中経の文庫)など著書多数。
YouTube下川裕治のアジアチャンネル

<撮影・動画協力>
阿部稔哉(あべ としや)
1965年岩手県生まれ。フォトグラファー。東京綜合写真専門学校卒業後、「週刊朝日」嘱託カメラマンを経てフリーに。

中田 浩資(なかた ひろし)
1975年、徳島市生まれ。フォトグラファー。97年、渡中。ロイター通信社北京支局にて報道写真に携わる。2004年よりフリー。旅行写真を中心に雑誌、書籍等で活動中。
https://www.nakata-photo.jp/
関連記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitterで「本がすき」を