【第10回】水汲み 著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

上水道の歴史、水汲みの歴史

 

水汲みは女の仕事である。世界中の多くの地で、そうであったと思う。上水道が整備されるまで、おそらく、世界中の女たちは水源から水を運び続けてきた……と、書くと、「社会が近代化されて、やっと上水道を使えるようになる」という言い方にしか聞こえまい。

 

実際、上下水道の完備というのは、現代世界の開発目標のひとつでもある。しかし、上水道は、2000年前の古代ローマでも、4000年前のモヘンジョダロでも整っていたのだというから、人類は、いったい、進化しているのか、退化しているのか、ときおりわからなくなる。

 

パキスタンで働いている友人は、地元の人から、「いいかい、どの国にも、その国の一番栄えた時代というものがあるんだよ。パキスタンではモヘンジョダロの頃が最高に栄えていた時代だね。いまは、だから、この国は衰退期にあるんだ」と言われて、そういうものか、と思ったという。単純な近代化思考や、人類はどんどん発展していく、という考え方自体が幻想ではないのか、と、水の利用からだけ考えても思い至るところがあるのだ。

 

女の仕事、男の仕事

 

ともあれ、水汲みは女の仕事である。連載の5回目に書いたが、アフリカの地でも、水汲みは女の仕事である。アフリカの村に調査に入っていく人類学者の女性たちは、村の女性たちと同じことをしながら観察を続けるので、結果として村の女性たちがするのと同じように、水汲みをすることになり、その結果として、頭の上にバケツをのせて水を運ぶ、ということをしなければならなくなり、そして、できるようになるのだった。

 

これが女の仕事、これが男の仕事、というふうに定義することは、現在ではもちろんポリティカリー・コレクトな言い方ではない。男女共同参画が世界の向かう方向である今、何事も、男も女も共同でかかわり、同様に責任を持ち、なんでもやることが良いことになっている。

 

子どもを産むことくらいは女にしかできないが、生まれた子どもを育てることも、もはや女の仕事ではなく、男も同様に参画することがもとめられることはもとより、「保育」という名の下に、子育ても社会化されることがよし、とされるようになった。

 

そんな中で、これは男の仕事、これは女の仕事、と言ってしまうこと自体がアナクロニズム、と言われそうなのであるが、おおよそ、世界の文化というものは、男の文化と女の文化がどのようにからみあっているか、ということでその文化の特色というものができていたし、男女が同じことをする歴史よりも、男の文化と女の文化が異なっていた歴史の方が長いのである。おそらくは、上水道の歴史が、思ったより長いのと同じくらい。

 

 

沖永良部の「暗河」

 

沖永良部島でも、昭和30年代終わりから40年代にかけて上水道が完備されるまで、水汲みは女の仕事であった。沖永良部島は珊瑚礁でできている島であり、地上に川があまりない。鍾乳洞などのように地下に流れている場合がほとんどである。

 

沖永良部では、その地下に流れる川が、上水道ができるまで重要な水源となっていた。この地下に流れている川は、地元では「暗川」あるいは「暗河」とあらわされ、読み方はどちらも「くらごう」という。表からは見えない、地下の水脈、なのだ。

 

高低差のあるところを地下に降りて、そこから水を運び上げる。手で抱えたり持ったりするより、頭にのせて運ぶ方が運びやすいし、実際重いものを運べる。沖永良部の女たちは、毎日この暗川から水を運び上げるのが仕事であったという。小学校高学年くらいからこの仕事をはじめ、中学生になっても、部活を終えて家に帰ってきて、まずやることは、この暗川からの水運びであったらしい。

 

昭和40年前後に小学校高学年くらいであった女性は、沖永良部ではリアルタイムの頭上運搬経験者である可能性がある。ということは2019年現在60代の方でも、頭上運搬の経験がありそうだ。おそらく沖永良部は、日本国内で、もっとも最後まで頭上運搬が残っていたところなのではあるまいか。

 

ハシとヌケ石

 

頭の上に水桶をのせて運んでいたわけだが、かなり重い水桶を自分自身で持ち上げて、頭の上にのせることはできない。だれかに桶をのせてもらう。まず頭の上に、前回の連載の最後に出てきた「ハシ」あるいは「ハッシ」とよばれる、藁でドーナツ様のかたちをしたクッションのようなものをおいて、その上に桶をのせる。

 

水場でしゃがみ、だれかにのせてもらって、運ぶのだが、のせてくれる人がだれもいないこともある。だれもいないときには、自分で桶を頭の上にまで持ち上げることは不可能だから、まず桶を「ヌケ石」とよばれる腰より少し高いくらいの石の上に置き、しゃがんで少しずつずらしながら桶を頭にのせていたのだという(*1)。

 

水汲みが女の仕事だから、頭上運搬は女にしかできなかったのかというと、そういうわけではなく、女がいない家では、誰かが水を汲みに行かねばならないのだから、男でも頭にのせて水を汲みに行ったという方もあったらしい。

 

桶を頭にのせるためのヌケ石

 

季刊誌『暗河』――表からは見えない底流

 

ところで。この、「くらごう」という名前には、強烈な既視感があった。1970年代、石牟礼道子さん、渡辺京二さん、松浦豊敏さんの3人が責任編集となり、熊本で、その名も「暗河(くらごう)の会」をつくり、『暗河』という雑誌を出しておられたのだ。

 

リアルタイムでこの雑誌の存在を知っていたわけではないが、渡辺さん、石牟礼さんのファンなので、この雑誌を集めていて、何冊か、手元にある。この熊本からの季刊誌、『暗河』の名前をつけたのは、現在、福岡にある出版社、石風社の社長をなさっている福元満治さんであるという。

 

責任編集のお一人、松浦豊敏さんの著書『争議屋心得』(*2)に、製糖工場の争議にかかわって、この「暗河」という言葉が出てくるのだ。沖永良部にかぎらず、奄美、沖縄のほとんどの島々は、もともと稲や穀物を作っていた土地が、さとうきびにモノカルチャー化されていった歴史を持つ。

 

製糖の原料であるさとうきびの産地である南西諸島のことを、おそらく松浦さんは、見たり、話に聞いたりなさったことが多かったのであろうし、そのなかで、奄美群島の「暗河」に言及されたのであろう。

 

福元さんは、『争議屋心得』を読んで、地下を流れる水源である「暗河」という言葉をとても印象的に思われ、表面に見えることがどのようであれ、そこに流れている思想の底流、というようなイメージを付与して、雑誌の名前として、提案されたのだそうだ。

 

なるほど、福元さんご自身には『伏流の思考』(*3)という著書もある。「暗河の会」の志されていたところは、よくわかるような気がする。

 

水場に降りて、水を汲む、という営み

 

沖永良部の暗川は、水場であるから、集落の存在の基礎にもなっている。集落によっては、比較的アクセスの楽な暗川もあり、なかなか降りていくのが大変な暗川もある。水場に向かう坂道は、狭く、湿っていて、すべりやすい。あるていど広いところもあったが、とても狭いところもある。

 

明るい日差しの地表から、ゆっくりと暗川におりていくと、水の匂いがして、空気が湿ってくる。いまは電球が付いているから、中が見えない、ということはないが、日中でもほの暗い場所であったことはよくわかる。

 

このようなところに毎日、女たちは降りて水を汲み、洗い物をし、自らの体も洗い、洗濯もしていたのだ。

 

水を得ることは、人が生きていく上でどうしても必要なことであった。必要だから頭上運搬が行われていた。変わることのない淵源が、暗川から、見えてくる。

 

沖永良部島の知名町にある住吉暗川

 

(*1)沖永良部の郷土史家 先田光演氏、伊地知裕仁氏にご案内いただき、教えていただいた。
(*2)松浦豊敏『争議屋心得』葦書房、1976年
(*3)福元満治『伏流の思考――私のアフガン・ノート』石風社、2009年

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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