【第11回】昔々あるところに・・・ 著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

昔々、祖母の祖母のころの話

 

「昔々あるところに……」で始まる、日本の昔話に出てくるおじいさん、おばあさんの多くは、腰が曲がっていた。絵本やお話に出てくるようすでは、とりわけおばあさんの腰が曲がっていたものである。「腰が曲がる」は、日本の「昔々あるところ」にいたお年寄りの、ある意味、典型の姿であったのだ。

 

これはお話の中だけのことではなく、私自身の祖母にあたる年代の女性たちも、確かに腰が曲がっていた。母方の祖母は明治38年、つまりは1905年、20世紀が始まったばかりのころに山口県で生まれた人であった。祖母は、まさに日露戦争の最中に生まれているのだ。

 

2019年現在、日本の元号も変わった今年、一応、まだ現役で働いている私くらいの年齢の者がはっきりと記憶し、言葉を交わし、愛し、慕った人は、20世紀が始まったばかりの頃、明治維新の記憶もそれほど遠くないころに生まれた人だったわけである。私の世代がはっきりと覚えている人が、19世紀の終わりか20世紀の始まりの生まれである、ということにあらためて驚く。

 

その、私のはっきりした記憶にある祖母の、そのまた祖母にあたる人は、天保11年、1840年の生まれである。このくらいの年代までは、現在の役所が情報を持っていたりするので、個人のレベルで役所に出向けば調査可能なのだ。

 

調べてみたところ、母方の祖母の、その祖母、田中コトさんは、天保生まれなのであった。当然ではあるが、堂々たる江戸時代の人で、その数年前には大塩平八郎の乱とか、やっていた時代の方なのである。

 

明治維新の中心で活躍する皆様も、だいたいその時代の生まれの方が多い。黒田清隆は、コトさんと同年の天保11年生まれ。また、コトさんの出身は山口県であるから、なおさら、維新で活躍した方も少なくなくて、たとえば伊藤博文は天保12年生まれ。

 

私の母のふるさとは、伊藤博文の生まれた村の隣村であったから、私の祖母の、そのまた祖母のコトさんは、幼い日の伊藤博文公に会ったこともあったかもしれない。伊藤博文の親が萩の下級武士の養子になる、そのずっと前、山口県の山あいの村での話である。時代というのは、思ったよりも、顔の見える範囲で推移している。

 

 

「つ」の字に腰が曲がる老女たち

 

そのコトさんの孫にあたる、母方の祖母は、山口県で農業を営んでいた。もともと農家だったわけではないようで、山口県の山あいの村に育ち、いとこ同士で結婚した祖父母は、若くして、博多の目抜き通りで運送屋を立ち上げている。山口県から一旗上げに行くところは、広島方面ではなく、博多なのであった。

 

結構羽振りの良い商売をしていたようで、何人も人を使い、親戚を呼び寄せた。福岡は天神に大きな看板を掲げて、従業員と家族で映った写真には、奥様然とした祖母に抱かれている幼い母親がおさまっている。

 

手広い商売をしていたようだが、よくある話で誰かの保証人になったとかで、全ての財産を失い、山口県に戻ってきた。その後は祖父母で農業をしたり小さな店を営んだりしていて、私の知っている祖母は、毎日畑に出て仕事をしていた、農家の主婦であった。

 

よく働く祖母であったが、畑からの行き帰りには、荷物を「かるうて」いた。「かるう」というのは、背中に背負うことである。

 

祖母は、荷物を頭に乗せるのでもなく、額にひもをかけるのでもなく、背中に背負っていた。背中に背負いながら歩く、という姿勢では、つねに若干、腰は曲がっている。そのあたり(山口県周南地方)の農家の女たちは、だいたい年齢がいくと、腰が曲がってくる。祖母の姉には、腰が、常に「つ」の字に曲がっている人もいて、幼い頃に、どうやって寝るのかなあ、なんて思った覚えがある。

 

「かるう」は、山口県周辺の方言だったのだと思うが、このように「背負う」形の運搬をやっている地方では、不可避的に女性の腰は曲がるのだ。「昔々あるところに……」の昔話のように。

 

永良部では腰は曲がらない

 

翻って、沖永良部島の女性たちは、年齢を重ねても腰が曲がらない。ずっと姿勢が良いのだという。実際に年配の方に会っても、ぴん、として姿勢が良い。それはもちろん、前回までの連載で書いてきた、「頭の上にものをのせる」からであろう。まっすぐな姿勢でなければ、頭にのせたものは、当然ながら落ちてしまう。

 

自分たちでも、「永良部では腰は曲がらないよね」、「うん、そうだよね。首は短くなるけどさ。頭に重いもの載せたからね」とおっしゃっている。みんなそうしてきたから、腰の曲がった年寄り、というのは、見たこともないという。

 

「腰の曲がったおばあさん」というイメージは、背中に荷物を背負う地域のものであることがわかる。頭上運搬している人たちは、背中が曲がらないのである。

 

いわゆる「昔話」のおばあさんは、腰が曲がっていて……というイメージが、これだけ強いことを考えれば、全国的にはおそらく「頭上運搬」はスタンダードではなかっただろうことがわかる。多くの地方では、荷物は背負われていた、ということなのであろう。 

 

 

「神津島女の運搬能力」

 

1939年に発行された『昭和医学会雑誌』に「神津島女の運搬能力」(*1)という短い論文が発表されている。神津島は伊豆諸島にあり、人が住む島としては伊豆諸島の最も西に位置すると言われる。

 

この論文の作者の野崎という人は、どうやらこの島民の診療にあたっていた人ではないかと思われるが、この島の女性たちの頭上運搬に並々ならぬ興味を抱き、調査をおこなって、論文としてまとめているのである。

 

つまり、「頭上運搬」は、当時の人たちにも、「目にすると驚く」レベルのことだったようだ。「昔々あるところに……」の多くの地方では、頭上運搬はしていなかったことが、ここでもわかる。

 

論文によると、神津島の女たちは、船着場では荷物を頭上にのせてはこび、畑では肥料の運搬を営み、家では水汲桶をはこぶ。全て頭にのせ、二つの桶の場合は天秤を頭にのせてその両側に桶を吊るすのだという。

 

神津島は急勾配が多いので、頭にのせることが一番理にかなっているのだろう、と記されている。ここでは、一人前の女子であればだいたい16貫目程度の運搬能力を持っているという。一貫目が3.7キロだから、16貫目とはおよそ60キロ近い重さではないか。体重より重い荷物を頭に載せていたというのである。

 

散在する「頭上運搬の風」

 

この論文では、実名入りで、12歳から60歳までの20名の女性たちの現在(その当時)の「負荷能力」(と書いてある)と、彼女たちが17~18歳の頃に有していた「負荷能力」とが記してある。

 

23歳のフジ子さんは、17歳のときには20貫目しか運べなかったが、いまは21貫目運べるのだという。21貫目とは、77.7キロのなのだが……。

 

米子さんは、50歳の今も、21貫目ははこべるし、現在60歳のアサさんも、まだ、14~15貫目を頭にのせられるのだと記されている。

 

この連載ですでに記した沖縄本島の糸満の魚売りの女性たちも、石垣島の芋を運ぶ女性たちも、沖永良部で水を運ぶ女性たちも、だいたい運べるのは「30キロくらい」と言っていたものだ。この神津島の論文に出てくる女性たちは、その倍くらいの重さをはこんでいた、ということになる。

 

神津島の論文を書いた野崎は、「ここに最も愉快を感ずることは島の老婆の姿勢である。すなわち年老いたる老婆も誰も女たるものは一人として腰の曲がりたるもの絶無なることである」と記している。

 

論文に書かれるくらいだから、珍しいことだったのである。頭上運搬も、「腰が曲がらない」老女も。

 

日本で女性たちが頭上運搬をしていたのは、中国、四国、九州の海岸に多く、南西諸島の島でもいくつかみられる。女性民俗学者の草分け、瀬川清子は「頭上運搬の風は、あちらにも、こちらにも、という風に散在している」と書く。

 

日本国内のどこで頭上運搬をしていたか、はある程度調べられている。次回の話題としたい。

 

(*1)野崎茂夫「神津島女の運搬能力」『昭和医学会雑誌』1巻(1939)3-4号、pp.232-233.

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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