【第1回】ネーネー、アンマー、オバア 著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

忘れてしまった、身体の力。脈々と日常を支えてきた、心の知恵。まだ残っているなら、取り戻したい。もう取り戻せないのであれば、それがあったことだけでも知っておきたい……。 日本で、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、ラテンアメリカで。公衆衛生、国際保健を専門とする疫学者・作家が見てきたもの、伝えておきたいこと。

ネーネーは突然オバアにはならない

この連載のタイトルは、本当は「ネーネー、アンマー、オバア」としたかったのだ。沖縄の言葉である。「ネーネー」はおねえさん、「アンマー」はおかあさん、今や、すっかり全国的に有名になってしまった「オバア」については、説明も必要あるまい。つまり「ネーネー、アンマー、オバア」は、「少女・女、母、婆」のことなのである。

 

沖縄の女性は、「ネーネー、アンマー、オバア」と進化する、と言われている。女性の中には母にならない人もいるのに、母を真ん中にするのはおかしい、とかいうような、近代的発言はあまりそぐわない。母になってもならなくても、ネーネーは、突然オバアには、ならない。

 

「ネーネー」は、一般には若い未婚女性のことなのだが、沖縄では、「ネーネー」は、女性に呼びかけるときの言葉でもある。実際に呼びかけるときは、「ネーネー」じゃなくて、「ねえさん」の方が多いけれど、呼びかけるときは相手が独身か既婚かどういう年齢かはあんまり関係ない。自分より年上の人でも少々年下の人でも、「ねえさん」と言っておけば間違いない。

 

いくら「オバア」の年齢であっても、知らない「オバア」であれば、「ねえさん」と呼びかけた方が良いことは言うまでもない。男性に呼びかける場合も、年齢を問わず、「にいさん」である。知らない人に「オジイ」と呼びかけてはいけないのである。

 

こういう呼びかけ方、というのは、生活感覚がないとわからない。関西人はよく「おっさん」「オバハン」とかいうし、会話にもよく出てくる。「あのおっさんが、車、持って行った」とか、「あそこのオバハンに、これ、もろた」とかいうのである。しかし、間違っても「おっさん」「オバハン」本人に向かって、「おい、おっさん」とか、「ちょっと、オバハン」とか呼びかけることは、喧嘩を売りたい時以外、絶対にやってはいけない。

 

琉球大学八重山芸能研究会:通称「八重芸」での暮らし

 

私は、沖縄出身ではないが、沖縄に、深いご縁をいただいてきた。父は復帰前の沖縄で、海底水道管敷設の仕事をしていた。単身赴任をしていたが、妹が生まれた時は、沖縄ふうの盛大な出生祝いをやったらしい。私の手元にある琉球絣の着物や、朱塗りに梯梧(でいご)の花の模様のついた見事な五段重ねの琉球漆器の重箱は、今も当時の新聞記事に包まれていて、毎年正月に出された後は、また、その古い『沖縄タイムス』に包まれ、沖縄とのご縁を物語っている。

 

その後、父と共に沖縄の730(ナナサンマル、1978年の車線変更。一晩で右側通行から左側通行になる)を経験した後、1986年には、当時の連れ合いが30を過ぎて琉球大学医学部に入学したので、沖縄に住むことになる。沖縄の高校が甲子園で優勝するようになったり、安室奈美恵や仲間由紀恵やBEGINが出現したりする前で、首里城も守礼門しか残っておらず、リゾートホテルなんて数えるほどしかなかった頃である。

 

沖縄が、「海とリゾートと豊かな人情とおいしい食事」であまりにも人気の、憧れの観光地となった今とは、趣は異なった。沖縄に住むことになったので、私自身は、琉球大学の、出来たばかりの保健学研究科という大学院の一期生となって、公衆衛生を勉強し始めました、というのは、形ばかりで、実際は、琉球大学の八重山芸能研究会という部活動に、かなり年上の院生であるにもかかわらず無理矢理入れてもらって踊って暮らしていました、というほうがあたっている。

 

沖縄は大きく分けて、本島、宮古島を中心とする宮古、石垣地方を中心とする八重山の三つの文化圏に分けられ、言葉も芸能も文化もかなり違う。沖縄観光をなさった方は、「ありがとう」は沖縄方言で「にーふぇーでーびる」というのだ、とお聞き及びかと思うが、例えば、宮古では「たんでぃがーたんでぃ」、八重山では「みーふぁいゆー」というのだ。かなり、違う。

 

琉球大学八重山芸能研究会、通称、「八重芸」は、つまり、石垣、竹富、西表、鳩間、小浜、黒島、波照間、与那国などの八重山諸島の、豊年祭、結願祭、種取祭などの祭などで演じられる芸能や舞踊を、学生たちが取材して、島の人たちに許可をもらって、練習し、毎年、那覇と石垣で舞台に上げる、という公演を続けていた。昨年、2017年で50周年を迎えた伝統ある部活である。

 

たとえば、「ダートゥーダー」という芸能は、もともと小浜島の結願祭で演じられており、緑の衣装に黒い面を被った森の精霊のような姿でジャンプしたり、回転したりする勇壮なもので、地元ではしばらく演じられなくなっていたが、あらためて学生たちが取材し、舞台に上げるようになり、それをきっかけにまた地元でも演じられることになった、と聞いている。西表島の祖納岳節(そないだきぶし)は、まるで高松塚古墳の絵から出てきたような衣装で、四つ竹を持ち、女性がゆったりと踊るものだが、この四つ竹を持って踊るバージョンは、学生が島の古老から直接習ったもので、今は八重芸以外ではあまり踊られていないとも言われている。

 

大学の部活動の一つ、というには、八重芸は、かように、結構、コアでディープな民俗学系のものであり、しかも踊りと芸能の修練でもあるので、体育会系部活のような厳しさもあり、この50年間では部員は多い時は40名くらいいたというが、少ない時は、廃部の危機に瀕するくらい、少なくなったりしていた。ナイチャー(“内地人”、つまりは、沖縄出身でない)の大学院生がこの部活に関わらせてもらえたのも、80年代半ば、八重芸は、部員減少に悩んでいた頃で、部活を維持するには琉球大学の学生だけでは足りず、沖縄大学、沖縄国際大学、看護学校などの八重山出身の学生に参加してもらってやっと公演が出来る、という状態だったからにほかならない。

 

部員不足時代を経て、いっときは、八重山出身者以外の学生もかなり増えて、海外公演、地方公演をやっていた時代もあるようだが、現在は、また、極端な部員不足で、踊り手が足りず、そもそも女性が踊るべき演目も男性が踊らなければならないことになっている、と、長く八重芸の顧問をなさっていて、今年3月に琉球大学を定年退職なさった山里純一先生から聞いている。何度目かの八重芸の危機、らしいが、なんとか乗り越えてもらいたい。

 

進化するオバアたち

 

そうやって八重芸で踊らせてもらっていた頃。つまりは、80年代の半ば、沖縄は、那覇の目抜き通り、国際通りから横に入ったところ、つまりは英語で言うoff国際通り、をずっと入っていくと、沖縄のオバアたちが、クリニックか何かの入り口あたりだっただろうか、5、6人たむろして、ウチナーグチで盛んにわいわい話していた。当時、すでに、ウシンチーにカンプーという、沖縄ふうの着物に髪型、というわけではなかったと記憶するが、なんだか元気が良くて明るくて楽しそうで、こんなふうに歳がとれたらなんていいんだろう、と思ったことだけはよく覚えている。

 

数年前、那覇を訪れて、off国際通りの同じようなところを歩いていると、全く同じような光景に出会った。同じように沖縄のオバアが5、6人集まって、全く同じような感じで座り、同じような感じで話している。強烈な既視感。思わず、オバアたち元気なのね、よかった、などと一瞬思ったが、考えても見よ、30年前のオバアと同じ人たちであるはずもない。この人たちは、次世代のオバアなのだ。同じ雰囲気の、同じような、沖縄のオバアが見事に再生産されている。この激変する時代を経て、なお。「ネーネー、アンマー、オバア」の進化は、今も続いているらしい。

 

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続いていること、切れてしまったこと、つなげられること、この連載ではそういうテーマを取り上げるが、深いご縁の沖縄から語らせてもらうことは、多くなりそうである。

 

 

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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