2018/07/27
石戸諭 記者・ノンフィクションライター
『はじめての沖縄』新曜社刊
岸 政彦/著
この本で、岸政彦が描く沖縄はねじれている。岸は沖縄のフィールドワークを専門とする社会学者である。彼自身は関西を拠点に活動しており、沖縄は研究対象だ。あえて酷な言い方をすれば、関西の「おっさん学者」が大好きな沖縄を調査にいく。
彼が取り組むインタビュー調査は人さまの歴史を掘り起こす行為だ。学者であろうが、僕のようなノンフィクションの物書きであろうが相手に応じろ、話せと強制することはできない。
どのような目的できたのか。調査をどう使うのか。説明しながら、自分は他者であることを自覚し、「一体、何者として調査するのか」という問うことになる。
岸はその問いを自身だけでなく、読者にも向けながらねじれを可視化しようと試みする。
メディアに流れる「沖縄」はいくつかのパターンにわけることができる。差別が問題だとするもの、沖縄とそれ以外の分断を問うもの、あるいは別の土地からきた若者が沖縄に馴染むまで——。
そこでは「本土も沖縄も関係ない」という美しい言葉が響く。
「差別とは、まずもって線引き」である。だからこそ、学者も記者も線引きをなくせといい、線引きを超えるようなテキストを提示しようとする。沖縄から生まれる美談も大抵は、沖縄を巡る境界線を乗り越えることから生まれる。
感動の物語を生み出しているのは境界線そのものというねじれがあるのだ。この本は「ある」ものを「ない」と言って逃げようとせず、「ある」ものを徹底して見つめ直そうとする。
「そこにはいまだに差別や排除があり、葛藤や対立、トラブルや喧嘩、不愉快な体験や受け入れられないぶつかり合いがある」
この言葉は沖縄と内地だけではない。沖縄内部にもある分断にも、自身にも同時に向けられている。
この本は沖縄差別を声高に語るわけでもなく、「本土に住む罪深い私の悲劇」を語るものでもない。むしろ、安易な結論に近づくことすらせず、徹底的に距離を取るという姿勢に貫かれている。
複雑な問題を語るとき、メディアはどうしても正しくあろうとする。政治的な立場とは関係なく、絶対に批判されない正しい言説を探し出し、それを誇示し、他の立場を批判する。しかし、そんな正しい立場は存在しない。
岸が提示するのは、正しさのぶつけ合いではなく、そこにある境界線そのものをさまざまな角度から見直すことである。そして自分が決して同化できない、「他者」を敬意をもって理解しようと「言葉」を生み出すこと。この本を締めくくる、最後の一文が効いている。
「いまだ発明されていない、沖縄の新しい語り方が存在するはずだ」
ねじれの先に見えてくるのは、語ることを諦めないフィールドワーカーの矜持である。
『はじめての沖縄』新曜社刊
岸 政彦/著