沖縄の本土のあいだの「境界線」とは?新しい形で描く「沖縄」ーー『はじめての沖縄』 

小野美由紀 作家

『はじめての沖縄』新曜社刊
岸 政彦/著

 

沖縄をめぐる「境界線」とは

 

沖縄についての本はたくさんある。ガイドブック、写真集、旅行記など「沖縄の美しさ・人々のあたたかさ」を描いたものから、戦争で彼らが受けた人々、基地問題、本土からの差別など、ネガティブな面まで。そのどちらかに振れた形でしか、外部の人間である私たちは沖縄に触れられない。美化するか、被害者として描くかのどちらかしかない。彼らとの間には依然として「境界」がある。
しかし、岸さんはそのどちらでもない形で「沖縄」を描こうとする。

 

「差別とは、まずもって線引きなのだ。しかしそうした物語を物語にしているのは他ならないその境界線自体である。その境界線がまず存在し、ふたつの人々の歴史的経験や日常的な生活世界を規定し、出会いや葛藤を演出しているのだ。
そう、そこには葛藤もまた存在する。そこにはいまだに差別や排除があり、葛藤や対立、トラブルや喧嘩、不愉快な体験や受け入れられないぶつかり合いがある」(P19)

 

どんな場合でも、差別してきた側が差別されてきた側を描こうとする時、その両者の間の「壁」を乗り越える、という形で描くことが多い。「差別を乗り越える」物語は、差別する側からすれば美しいからだ。意地悪な言い方をすれば、その対象を美しく描くことは、描き手にとってそれを描くことのある種の免罪符にもなりうる。
物語でも、ルポでも、ノンフィクションでも。そちらの方がわかりやすくて、感動できる。ほら、私たち、違いを乗り越えてこんな風に理解し合えるんですよ、って。
けど、岸さんはそう言うやり方で沖縄を描こうとしない。内地の人間である「私」と、圧倒的な他者である「沖縄」、その間にある境界線を、線引きを、ありのままに可視化する。

 

沖縄で、タクシーの運転手さんが信号待ちの間にティッシュでバレリーナを折ってくれた話。図書館で調べ物をしていた時、司書さんがそっと私物であるミニストーブを貸してくれた話。戦後、戸籍を作りなおす時、村長さんが面倒くさいからと言って村人全員の生年月日をおんなじにして申告してしまったせいで、父母兄弟と全く同じ誕生日になってしまった沖縄出身の男性の話……。

 

こうした沖縄の人々独特の生活規範、つまり「生活や人との関わりにおいて、自分が必要だと思ったことをその場で行うこと、ポジティブなルール破りの感覚、またそれにより自分たちの人生を自分で選び取り、自力でなんとかしてゆく姿勢」を、岸さんは沖縄の人々固有の「自治の感覚」と呼んだ。そしてそれは、例えば駅で倒れている人がいる時に、「他人にいきなり話しかけてはいけない」と言う暗黙のルールが破れずにスルーしてしまう我々都会の人間には無いものである。

 

こうしたエピソードの積み重ねによって、岸さんは失われつつある沖縄らしさ、つまり「沖縄にあって本土にないもの、本土にあって沖縄にないもの」を可視化してゆく。境界線があらわになる。「良いもの」としてでも、「悪いもの」としてでもなく。

 

分断を分断として、わからないものをわからないとして描くのは勇気がいる。
それは決して、エラそうにしないってことだからだ。「私は彼らと、差異・差別を乗り越えて手を繋げる存在なんですよ!」って幻想に酔わない。
「俺なんかが彼らの理解者と言っていいのだろうか(いや、そんなはずはない)」という岸さんのためらいと葛藤が、この本の随所にあふれている。

 

「私たちはともすれば、差別や貧困に苦しむ沖縄人、基地の被害に悩む沖縄人を描いてしまう。しかし現場に入り込んで多くの人々に会うと、現実はそんなに簡単ではないということを思い知ることになる。そういう固定したイメージではなく、もっと複雑で流動的な現実を描くことになる。」(本書より)

 

沖縄が教えてくれる、「他者」とは何か

 

話はそれるが、少し前にゲイの友達が言っていた。「ゲイだと言うと、女の子に好かれる」と。

 

「『私、ゲイの友達が欲しかったの!恋愛相談に乗ってよ!』って言われるんだけど、ぼくは『女の子だからって髪巻き巻きーとか、まつげ盛り盛り、とかじゃないっしょ?ゲイだからって恋愛相談に上手く乗れるかって言ったら間違いだから』って返すんだよね」

 

私はドキッとした。ゲイだから恋愛相談に載るのが得意だろう、とは思ってはいなかったが、「ゲイの男の子はおしなべて話しやすく、いい奴が多い」と勝手に思っていたので。

 

「スキ」に勝手なファンタジーが混ざっていないか。他者を好きと言う時、自分への慰めとして他者を使ってはいまいか。岸さんが警戒しているのはそれだろうと思う。

 

「こちら側の勝手な妄想があり、また同時に、そこは本当に良いところだという実感と信念がある。しかし、そうした実感や信念を語った途端、私たちは、沖縄に対して欲望する植民地主義者になってしまう。」(本書より)

 

しかし、私はそのファンタジーを乗り越えたい。知った上で好き、と言うのと、知らないうちに好き、と言うのとでは、また違うような気もする。岸さんも同じなのではないか、と勝手に思う。

 

本書のタイトルは「はじめての沖縄」である。ただの「沖縄」ではない。
つまり、これは、岸さんにとっての「沖縄」、はじめて沖縄に触れたときの熱狂と驚きと戸惑い、どこまで掘っても本質をつかめないであろうという畏怖、そこから、それに取り憑かれてしまった岸さん自身の姿を書くものである。
だから本書では、沖縄の暴力や差別や戦争で受けた被害について語りながら、海の蒼さと人々のおおらかさを語りながらも、話は「個人の交換不可能性」にまで及ぶ。

 

「私たちはみな、社会の中で生きている。社会というものがつながりと同義なら、どうして私たちは毎日、こんなに寂しいのだろうか。すでに私たちがつながっているのなら、どうしてこんなにいつも、孤独を抱えて生きていかなければならないのだろうか。そもそも、それがすでにつながった状態なら、なぜ私たちは、何度も何度も、つながりの必要性を叫んでいるのだろうか」(本書より)

 

沖縄を語っているのではない。他者と、境界を境界のままにしながら理解し合うこと、それ自体について語っているのだ。

 

境界の向こう側にある他者への畏怖と敬意。でも、そこに触れて、他者にまみれて、境界を感じて、型抜きのように自分を知りたいという内なる欲望。

 

本書を読むと沖縄に行きたくなるが、それは、美しい映像で作られたテレビCMやガイドブックや旅行体験記を読んだ時に感じる「行きたい」とは別物である。

 

『はじめての沖縄』新曜社刊
岸 政彦/著

この記事を書いた人

小野美由紀

-ono-miyuki-

作家

1985年東京都生まれ。慶應大学文学部仏文学専攻卒業。学生時代、留学、世界一周に旅立ち22カ国を巡る。卒業後、無職の期間を経て13年春からWebや雑誌を中心にフリーライターとして活動開始。徐々にコラムやエッセイに執筆の域を広げる。著書に、絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)、エッセイ『傷口から人生。~メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』(幻冬舎)、『人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み・食べ・歩く800キロの旅』(光文社)。2018年、初の長編小説で銭湯を舞台にした青春群像劇『メゾン刻の湯』がポプラ社より発売。月に1回、創作文章ワークショップ「身体を使って書くクリエイティブ・ライティング講座」を開催している。


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