第10章 ポコシボ(5)かけら
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/05/28

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第10章
ポコシボ(5)かけら 

 

「気に入りましたか?」
 そう問いかけられ、大きな瞳で微笑みかけられる。その手が伸びてきそうに思えた。
 菜々子は自分がひどく緊張しているのを感じた。胸の窪みに収まった、雫形のネックレスに手をやる。気に入らないはずがない。母がずっと身につけてきたネックレス、スペインの海からここへと運んだ宝物。それに、銀の色もデザインもとても素敵だ。
 なのに、一つも言葉が出ない。
 黙って頷いたのを見て、母はこう言った。
「もうわたしたちは、きっとニホンは、いかないです。でも、いつもここにいる。ナナコさんは、いつでも、きていいですよ」

 

 

 遠くの岸で高い波が上がり、やがて波は崩れ、足元まで白く泡立つ水が伸びてきた。
 二人とも足に水をかぶった。菜々子のハイカットのスニーカーも、母のサンダル履きの足も、海水に浸った。二人とも、動こうとしなかった。
 まだ海は冷たいと菜々子は知る。
 そして、この人たちは知っているに違いないと、改めて感じた。もしかしたらすでに高山産婦人科医院から連絡が届いている可能性もあった。でも、どうあれ日本へは行かないとこの人たちは決めたのだ。それが自分たちの育てた娘を守る方法だと話し合ったのかもしれない。

 

「また来ます。素敵な場所だから」
 そう言うと彼女は、はにかんだように表情を崩し、黒いほつれ髪を耳にかけて、
「むろん」と、言った。
 無論、と言ったのかと戸惑っていると、
「カンコク語のムロンは、ニホン語のもちろん、にてますね」
 菜々子は黙ってもう一度頷く。似ているのは、あなたと私。顔も声も、そして多分、この海が好きなところも似ている。自分によく似た人が、いつでも来ていいと言ったのだ。必ず、ここにいるから、と。

 

「オンマ」
 砂浜を駆けて、ユニフォーム姿の娘がやってきた。手にグリーンの薄いカーディガンを下げて、母親に渡しに来たようだ。そのカーディガンにも触れてみたくなる。抱きしめてみたくなる。
 彼女の名前を、まだ訊いていなかった。宮本みずきによく似た勝気な顔つきの娘に、
「チェ イルムン ナナコ イムニダ」
 覚えたての韓国語で、先に自己紹介をする。
 母親の陰に隠れる幼い子のような仕草をして、
「ハリン イムニダ」
 と、小声で答えてから、涼しげな目を輝かせ母を見上げた。
「ナナコさんとハリン」
 母が二人をそれぞれに見つめると、ハリンという名のその子が、母の胸元に手を触れ、ネックレスがないのに気づく。
 菜々子が自分の胸元に手をやると、眉を寄せて、何か呟いている。多分、それはオンマの宝物だったはずでしょう、と言っているのだろう。
 返そうかと手をかけたが、それはすでに自分の鎖骨の窪みにすっぽりと収まっていた。それは自分がもらったたった一つの母のかけらだった。

 

 

「先に戻ります。冷えてきたので」
 そう言うと、ブラウスの胸元を押さえて、菜々子はその場を離れ店内へと向かった。階段を上がり、ジヒョンの母と次姉が座るテラス席につく。
 ジヒョンの母が、席に戻った菜々子の背を擦ってくれて、膝掛けを渡してくれた。車から取ってきてくれたようだった。人間の手は暖かい。暖かくて、力を宿している。
 張り詰めていた心が破裂してしまいそうで、菜々子は深呼吸した。
「ナナコ ユア シューズ?」
 次姉がそう言って、大丈夫? という風に首を傾ける。
「コーヒー?」
 暖かいコーヒーの誘い、魅力的だ。
 だが、
「何も、要りません」
 口に出してみると、その言葉はまるで菜々子の今の心境そのものだった。何も、要らない。
「なにも、いらないんですか?」
 浜辺から、ソン・カウン、ハリン母娘が、並んで帰って来るのが見えた。海の色は淡く、砂の色が混じり乳白色のようにも見えた。二十二年を共に歩んだ母娘の姿が絵のように見えた。

 

「こんな海の色、はじめて見ます。私の育った湯河原の海とは違う色です」
「きれいな場所ですね。私たちも、知らなかった。こんど、ジヒョンもつれてきてあげます」
ジヒョンの母が言う。
 ふと、ジヒョンと謙太と三人で来られたら、どんな気持ちになるのかなと考えていた。よく首からカメラを下げている謙太も、きっとこの海の色を気に入るだろう。本当の父や母を、すぐ近くに感じながら、決して満たされることのない想いで過ごす時間。
 満たされなくていいんだ。
 そんな想いの中で、出会ったり、別れたりするのがきっとこれから生きていくということなんだ。そう菜々子は思う。

 

 

「サンセット、どうかな?」
 次姉が、空になったコーヒーカップを手にして言う。
 自分も海辺に育ったから、沈む夕陽なら想像できる。大きく燃えるような夕陽が、海に沈みながら色を滲ませていく。
 私たちは誰も、生まれてくる場所を自分で選ぶわけではない。ある日、この世に生を受けて、自分を産んでくれた母と出会う。その横にいる父に出会う。
 生存競争に打ち勝った精子と卵子の結びつきと言えばそれまでだけど、神の采配とも思えるし、自分の場合はその役を高山医師が代行しただけなのだ。小さな悪戯のような、決して許されないミスを犯して。

 

「そろそろ帰りましょう。少し冷えてきました」
「菜々子さん、まだいいよ。これ、肩にかけますか?」
 ジヒョンの母が、赤いチェックの膝掛けを広げてくれる。
「いえ、きっとまた来ます。カムサムニダ、お二人ともありがとう」
 次姉がジヒョンの母の顔を見た。韓国語で二人は何か言葉を交わした。
 ジヒョンの母はそうそうとばかりに、頷いた。

 

「写真を撮りませんか?」
「写真?」
 考えもつかなかったことに、驚いていた。
「それも、いらない?」 
 ジヒョンの母の目の奥の深い場所の輝きを見ていると、また心が破裂しそうになる。
「アイ ウィル。ジヒョンにも、送ってあげていいかな?」
 次姉はそう言うと、胸にエプロンをつけた父に声をかけた。父は母に、そして母は娘のハリンにも声をかけた。
 赤茶色のペンキの文字で店の名が大きく書かれた壁に四人で立った。
 ひどくくすぐったく、もどかしくて、家族の匂いの中にいる自分を狂おしく感じた。
 菜々子、その横にハリン、菜々子の隣に父、ハリンの隣に母。
 次姉がスマホで何枚か写真を撮る、きっと他の客人や観光の人たちとも経験しているはずの穏やかな時間。
 隣のハリンが、なぜか不意に菜々子の腕に自分の腕を回してきた。そういえば、ジヒョンもよくそんなことをする。ごつごつした手、長い指。
「OK」
と、次姉が言って、ハリンの腕が菜々子から解かれたとき、菜々子は自分の右のひと指し指につけていた指輪を目に留めた。
 宮本みずきが、機嫌が良かったときに、箪笥の引き出しから自分にくれた指輪だ。医学部に合格した時だったかもしれない。
 母みずきの装飾品はいつも華奢なのに石がついているような、菜々子の趣味ではないものばかりだが、その指輪は案外ゴツくて石はついておらず、プラチナのリング表面が溶けたような加工がされており、光も鈍い。
「案外高かったのよ」
 と、母みずきらしい余計なことを言ってくれた。

 

 

「ハリン」
 呼び捨てはいけないのかもしれないけれど、そう呼びかけてみた。
 こちらを振り向いたので、自分の指から外したその指輪を、ハリンの右手の人差し指に通してみた。彼女は驚いてはいたが、嫌がらずに黙って見ていた。
「プレゼントします」
 そう言うと、ハリンは母カウンの方を見上げた。
 母みずきの指輪は、ハリンの指にとてもよく似合っていた。潮風にさらわれた髪が額に張り付いて、離れようとしない。

 

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PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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